豊商会の歴史

豊商会の歴史SINCE1924 … そして未来へ

第2章 拡充・充実(1977~1989)後藤秀一の時代

秀一専務始動

後藤秀一会長(近影)後藤秀一会長(近影)

入社5年、まだ高島町給油所の現場に作業服姿で立っていた後藤秀一に危機回避の重大な役目が担わされたのは、嗣子として当然の運命であった。秀一は、急遽作った専務の肩書きを刷り込んだ名刺を手に、経理担当者を同道して、当時、銀座西にあった日本石油東京営業所に清水岩蔵所長と松室課長を訪ね、当社が直面した緊急事態を報告し、今後の取るべき方策を相談した。急場を凌がなければならないという気持ちで必死であり、社員とその家族の生活を考えると真剣にならざるを得なかった。やがて「従来通りの関係を継続する」が「その代わり、集金をしっかりやるように」との返事をもらい、逆に励まされて帰社した。当時の日本石油への納金は、月末に会計担当者が持参しており、日本石油本社には銀行の職員が出張してきていた。前日までに社員が手分けして集金した小切手や約手をまとめ納めるわけだが、日本石油に詰めている銀行員が帰る時間を見計らって渡す、ということが続いた。

こういう手段を取ることで当座引き落としに時間的猶予が生まれ、その間に資金手当てするわけである。秀一はこういう経験をもとに資本の充実と内部留保の蓄積がいかに重要であるかを知り、また、全面的な銀行依存の危険性を教わった。しかしながら資金繰りの安定までは 2年ほどの月日を要しなければならなかったのである。幸いなことに、その後、この努力が実って、新たな銀行取引関係を拓いていくことができた。


父後藤張幹が倒れた日、後藤秀一は「今日から専務になってもらいます」といわれ、専用の部屋を与えられた夜、父が綴ってきた業務日誌を隅から隅まで読んだという。
日誌は銀座伊東屋、三越製の美濃紙を綴じた「複寫用箋」や「大學ノート」に書かれていた。「用箋 昭和 24年7月起 後藤用」と記された「覚え」は社長が特注したもので、「横濱市西区表高島町貮番地、株式會社豊商會」と印刷され、山下町、片瀬、藤沢の 3営業所も住所と共に刷り込んである。本社は現在と同じ場所であり、電話は「神奈川④ 2563番」となっている。秀一はこれらに書かれている「銀行との関係」「卸している販売店との状況」や「資産に関する控え」などを初め、項目を一晩で読み、会社に関する経営状況を頭の中に叩き込んだ。秀一より 2年遅れて入社した元社員は、この頃から経理所属となって、前述の「綱渡り的資金繰り」を経験している。その中で観てきた若き後藤秀一専務の素顔を、「若年で経営の修羅場を味わっただけに、外観に似合わず、ここぞという時の決断力がある人物だ。決断は的確だった。人の力を旨く引き出す能力があり、部下に権限委譲を図って重要な仕事を任せるという現代風の経営術を駆使した。現在の豊商会の基盤を築いたのには、当時の専務にそれなりの理由や力があったからです」と語っている。

急成長した当社態勢

昭和30年を迎えると、通産省は「国民車構想」を発表して大衆消費時代の幕開けを告げ、わが国に本格的なモータリゼーションの花が咲こうとしていた。自動車の普及も戦後、安くて小回りがきくともてはやされたオート三輪から、ダットサンやトヨエース、など、小型四輪トラクタにウエートが移っていき、大量生産による低廉価は個人商店でも購入を可能にしていった。

1年後に発表された経済白書は、「もはや戦後ではない」との書き出しで始まり、あたかも石油産業の豊かな将来性を指しているかのようであった。国民総生産の伸びと共に重化学工業が好況を迎え、石油コンビナートが全国各地の臨海部に続々と建設され、一気に石炭から石油へのエネルギー転換が進行していった。

神武景気を境に三菱 500や日産ブルーバード、軽乗用車スバル 360など、個人向け乗用車が開発され、50~60万程度で購入できる価格設定であったため、一般勤労者の間に急速に普及していった。その結果、当社の業務が直接担う自動車燃料としてのガソリン販売も急増し、同時に販売競争の激化が台頭しはじめたのである。

昭和 30年末の全国の給油所総数は、1,729か所になっており、わが国の産業を下支えする中小零細企業の活動は益々活発になり、自動車の増加は、ガソリン、軽油の需要増加をもたらせていた。
昭和 31年2月、当社は東神奈川給油所の運営を開始したが、同時期には日本道路公団の「ワンマン道路」(横浜新道)も開通し、販売競争が一層激化する兆候を見せ始めていた。
同 30年に、県下の給油所は73か所であったものが、3年後の33年には238か所と3倍以上も増加し、さらに3年後の36年には411か所と、約5年間に 6倍近い伸び率を見せて、業界競争は激化していった。

この成長率は、昭和 57年度まで突き進み、石油販売業界に構造改善の認識を新たにさせることとなっていく。しかし、まだ時代は販売競争に勝つための方策以外にとるべき手段はなかった。当社は、この時期、昭和 27年4月1日に吉野町を改造オープンさせて以来、順調にサービスステーションを順次開設させて運営し、現在の販売体制の基礎を固めていった。

高度成長時代

昭和40年頃の高島町交差点付近昭和40年頃の高島町交差点付近

昭和35年7月19日成立した池田内閣は、経済審議会の答申を受けて「所得倍増計画」を政策決定、ただちに「月給 2倍論」を実行に移していった。ホンダ、ソニーが町工場から世界企業への足掛かりをつかんだ年で、東名、名神などを建設する高速道路公団が発足した。
わが国の急速な生産力拡大と物流量の増大は、陸上輸送手段を鉄道からトラック輸送へと移行させていったのである。高度成長第 2期に突入した。日産追浜、いすヾ藤沢、日野羽村工場と月産能力 1万台級の工場が続々竣工し、好況は当社の業績にも良影響をもたらせていった。神武景気、岩戸景気、この間に緊縮政策を挾んではいたが石油の需要は順調に伸びていった。

ガソリン市場は順調に推移し、同時にトラックの増加によって軽油の大口販売も増え、業界には顧客獲得の乱売合戦が出始めていった。バス会社、トラック業界、ハイタク業界、官公庁などの大口需要家との価格を巡る値引競争は小売り業者間に軋轢を呼び、神奈川県石油業協同組合の主導で協議する場面も発生している。同時に大手の東急、日通などが資本力を背に県下進出を目論み、波乱の時期でもあった。
このころ専務取締役として実質的な陣頭指揮をとる後藤秀一も、当時を顧みて「業界はずっと追い風を受けてきた。豊商会にとってもこの追い風は、最も良かった時期と重なった。追い風はかなりの期間続いた」と述懐している。と同時に業界は「追い風」を真横に受ける企業も現れ、横浜では有力といわれた企業が過当競争に敗れてひとつひとつ消えて行く状況もあった。

当社でも気を引き締めていくよう経営基盤の強化が必要となっていた。必然的に、優秀な人材の確保にも力を入れなければ業界における生き残りは適わない。それまでの労働力確保は、中学卒の「金の卵」を別格として、いわば売手市場の状況にあり、当社でも昭和 36年入社のある社員は、社内報に「千葉県の高校を卒業して入社した。

昭和40年頃の当社広告昭和40年頃の当社広告

横浜職安を通じて庶務課の募集に応募したが、このときに持参した履歴書は職安近くの代書屋で書いてもらったものだ。大体が履歴書などというものは書けずに困っていたが、職安の構内にはそういう代書屋が机を並べていた。面接になって、会社から自筆のものに書き直され、冷や汗をかいたものです」と投稿し、当時の世相を裏付けている。
人手不足の中での人材を確保することは企業にとって至難の業であった。このころの当社は、採用担当者を九州熊本県にまで派遣して社員募集に励んでおり、次の年には北海道道北地方の学校を訪問して入社希望の生徒を打診している。中途入社の人材にも力を向け、政府のエネルギー転換政策によって不安感漂う石炭産業からの転職者、将来に希望が持てない進駐軍要員を見限って入社するもの、民間より給与体系の劣る郵便業務員、ノルマの厳しい販促セールス会社からの転向者なども多い時代であった。

わが国経済は前年秋の東京オリンピック開催に先駆け、名神高速を全線開通させて高速道路時代の幕を明け、トラック輸送全盛期を迎えようとしていた。不自由な体ながら第一線の陣頭指揮をしてきた後藤張幹社長も、 3年前に横浜開港記念会館で行われた神石協創立10周年記念式典において「業界功労者」の表彰を受け、悠々自適の老後を歩み始めた。専務の指示で、厚生福利体制に退職金規定を制定( 38年4月)、やがてオリンピック閉幕後に訪れると予測される不況に対処する態勢も整った。

昭和 39年11月12日、磯子の横浜プリンスホテルで催された「創立40同年記念行事」に後藤張幹・トキ夫妻が元気な様子を見せ、後藤秀一専務が代表して挨拶をした。会場には日本石油の幹部も出席し、当社の社歴に乾杯の音頭を取って花を添えた。

創立40周年を迎えた後藤張幹社長、メモは不自由な中で左手で書いた撮影月日創立40周年を迎えた後藤張幹社長
メモは不自由な中で左手で書いた撮影月日

プリンスホテルで催された「創立40周年記念行事」に出席した張幹夫妻プリンスホテルで催された「創立40周年記念行事」に出席した張幹夫妻

3回の増資で基盤づくり

本社を置いたこともある 都市交通ビル付近本社を置いたこともある 都市交通ビル付近

昭和40年前後の当社は日本石油、日本石油瓦斯の特約店として「誇る信用良いサービス」を経営目標に掲げ後藤秀一専務の下、活発な企業活動を進めていた。この当時の本社は桜木町7丁目41番地で、現神奈川都市交通本社ビルの1階であった。直営の給油所は高島町、山下町、吉野町、東神奈川、港北(樽町)、藤沢、藤沢西の 7か所を有し、山下町にプロパン販売店を付設していた。38年、資本金を1000万円に増資して企業体力を強化し、40年2月「花咲町給油」、同4月「戸塚給油所」と2店を次々開設しており、5月には後藤秀一、ヨシ子夫妻に嗣子元信が生まれている。

この頃から自動車業界の再編が始まるが、当社は42年4月には再び増資して新資本金 1500万円とし、この夏に新発売される「ニュー日石ゴールドガソリン」を新たな戦略商品に拡大成長を図っていったのである。同年8月「東大和」、翌43年3月には「南大和」と「反町」各給油所を開設、直後の同年3月、再度増資(新資本金2000万円)し、業務拡大に拍車を掛けた。そして中区相生町日吉ビルに本社を移転した。さらに同年11月には「藤ヶ岡給油所」も開設、当社は直営12給油所を有するまでに発展していった。この時の日本石油横浜支店下の給油所は325店で、世の中は「3C時代」を迎えていた。


当時の高島町の建物と給油施設当時の高島町の建物と給油施設

昭和44年を迎えると5月に東名高速が開通して東海道ベルト地帯が一本につながり、翌年は大阪千里丘陵で日本万国博覧会が開催され、日本経済力の世界制覇が実る時期を迎えていた。当社豊商会も44年度決算は売上26億円を突破した。専務の後藤秀一は翌45年度の目標を「30億円」に設定して全社に檄を飛ばした。社内に野球部が結成され、各種の係数管理のために電算機が導入されたのもこの年であった。46年4月、社内報『ゆたか』の記事によると、全社202社員の平均年齢30.7歳(男子31.0歳、女子29.0歳)、平均勤続年数は男子7年、女子2.5年という数字であった。

この年7月に発表した日本石油系の県下のSSは2年前より減って304か所だったが、逆に当社の運営する給油所は、藤沢市・石川給油所( 6月開設)、新横浜給油所、大津給油所を相次いで開設していったのである。同年8月9日、県労働福祉センターで創立47周年を記念する会を催し、社員全員に万古焼の花瓶を贈って祝った。翌年になると当社は業界に先駆けて月1回の「週休2日制」を実施して、社員の厚生福利に充実を図った。同年10月「鳥浜給油所」を新設、翌48年5月にも大和市・上草柳給油所を開設して、着々と業務の拡大を推進していった。

秀一社長就任

昭和50年代で最も衝撃的なことは、創業者後藤張幹の逝去であった。昭和52年4月1日、専務取締役後藤秀一は、病床にある父張幹に代わって代表取締役に就任した。これを確認して安心した張幹は、同年6月20日に、その偉業を誇る生涯を閉じた。享年87歳で天寿を全うした。大正13年8月の創業以来、54年2ヶ月にわたって社長であり続けた。病に倒れてからは、不自由な身とはいえ常に前向きの人生であった。自邸で執り行われた社長との告別は、各界から哀悼の意が寄せられ、生前の張幹の深く広い交際が偲ばれた。遺骨は生前自ら建立した鎌倉扇ヶ谷の菩提寺、亀谷山寿福金剛禅寺に葬られた。諡号「常行如意院為豊徳院張光明幹居士」である。

会長になった後藤張幹会長になった後藤張幹

新社長後藤秀一新社長後藤秀一

オイルショックを乗り越えて

昭和50年は県下石油販売業界の規模が頂点に達した年である。県石協・県石商加盟の組合員は同年から54年にかけて最高を示し、約1250社店となった。これらが経営・運営する給油所は1850~1890ヶ所に上り、この計数は現時点においても県史上最高である。元売別県内ガソリン販売数量においては、当社豊商会が特約店契約する日本石油が常にトップを独走してきたが、これに昭和シェルと共石らが加わって猛烈な販売競争が行われ、新設給油所の増加が急伸した。軽油についても同様である。

当社は昭和48年末と54年春に起きた石油ショックを乗り越え、逝去した後藤張幹の後を継いだ後藤秀一社長の下で着々と独自の営業基盤を築いていった。2代目社長となった後藤秀一も、創業以来、強力な指導力で当社を牽引してきた前社長の路線をそのまま継承したわけではなく、張幹が病に倒れた以後を自ら陣頭指揮してきた実績を基礎に、新たな豊商会の経営を目指してきていたのである。後藤秀一社長は、経営方針の一環として、日本石油との関係をより一層緊密に維持することとし、現在の当社経営の基盤を築いた。

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