激動の昭和期は、1989年、昭和64年1月7日にその幕を閉じ、「平成」へと時代を変えた。丁度その過渡期を繋いだのが当社第3代社長の後藤ヨシ子である。後藤ヨシ子は1983年7月に当社取締役に就任し、以来後藤秀一社長の補佐役を務めながら、経営に必須の商法・財務などを学び経営感覚を培ってきた。1986年には副社長に就任し、一層会社経営の実践を積んだ。そして1989年3月14日、後藤秀一が代表取締役会長に就任、同時に後藤ヨシ子が代表取締役社長に就任した。
この間、取締役就任直後には「(株)ウエスタンジュエル・ユタカ」を設立して代表取締役に就任する。さらに当社プロパンガス部門を分離独立させて「ユタカガス(株)」を設立、災害に対して強いという家庭向けプロパンガスの供給と関連器具販売を専門に体質を転換させた。現在では両社とも時代の趨勢により閉鎖されたが、大学卒業と同時に入社して両社勤務をそれぞれ経験した長谷川脩が、「豊商会本体と顧客との厚い信頼関係が業務に強く反映され、プロパンガス充填所も有した『ユタカガス』、宝石・贈答品を始めとする『ウエスタンジュエル・ユタカ』の両社ともに、顧客獲得には大きな力となった」と振り返る。
後藤ヨシ子が社長に就任した1989年は折しもバブル期(1986年12月~1991年2月)が陰りを見せ、日本経済は後に「平成不況・複合不況」と呼ばれる長い苦難の時代に突入する。後藤ヨシ子社長はその困難のバトンを就任当時から受け継いだわけである。1990年発端の株価暴落はバブル崩壊後の不況を一層深刻化させ、GDP減少グラフが示す現象は、多くの企業の経営破綻に繋がっていく。当然当社も後藤秀一前社長の味わった金融機関との軋轢が再び待ち受けていた。しかし、持ち前の資質を生かして果敢にチャレンジを繰り返し、常に数字の示す動向に目を配りながら、関連会社を含み多様化していく社業全体を牽引していった。その基本となったのは永年趣味として真摯に取り組んできた「能」の影響も大きい。伝統芸能宗家の鼓、笛、謡いに支えられて舞台に立ち、面(おもて)を付けた狭い視野でも間合いや全体を把握しなければならない研ぎ澄まされた感覚は、経営にも通じるという。素人の最高位である観世流「名誉師範」を得た過程で身についたと了察される。
1987年には当時のガソリンスタンド(給油所)に対する規制緩和が実施され、呼称も「給油所」や「ガソリンスタンド」から「サービスステーション(SS)」へと順次変化していった。当社では、藤沢市藤沢5丁目の「藤沢西給油所」を「おしゃれなSS」をコンセプトに、「ハイオクガソリンに特化」「B&Rサーティーワンアイスクリーム店併設」のSSにリニューアルするなど、異業種参入も積極的に推進した。開設時のマネージャーに抜擢された井上義勝が「SS未来構築の先鞭を任され、その運営に携わることができワクワクした」と述懐する。その後各社SSが「コンビニエンスストア」や「カフェ」などの異業種に参入する先駆けとなった。同時に進行していたSSの愛称決定を受けて「サンリッチ」となった最初のSSでもあり、「サンリッチ藤沢西」とSS名もお洒落で新しくなった。同SSの設計や同時期に進んだ本社の設計を担当した豊計器建設(株)の佐藤武常務は次のように語っている。「施主である豊商会社長がイメージする強い思いを具現化する仕事は達成感が得られた。藤沢SS(藤沢市西富)のリニューアルも独自性を生かした設計ができ、これらは当時の後藤秀一会長にそれぞれを『作品』と呼んでもらったことを思い出させる仕事になった。」
異業種参入が示すとおり、後藤ヨシ子社長は様々な経済情勢の変化の中で、より一層社業の進展を図るために方策を探っていた。その中で立ち上げた社内委員会では「社員の意見を汲み上げる」システムを構築し、販売方針のアイデアやSSの愛称を募った。例えば、SSドライブウェイの新たなデザインや当社SSの呼称をサンリッチと決定するなど、斬新な手法も取り入れた。呼称採用に当たっては、広告会社にその時代感覚の適否を委ね公平を期した。「サンリッチ」、この意味するところは、当社が特約店となっていた当時の日本石油(株)(現在のENEOS(株))のシンボルマークである「サンライズ」と、当社の「豊」=「RICH リッチ」を組み合わせ、強い結束と将来へ飛翔するイメージを表したものである。 以後、既設・新設のSSに「サンリッチ」を冠し、当社SSアイデンティティーのひとつとなって現在も息づいている。
1981年以来本社を構えていた横浜市泉区上飯田の土地を一部売却し、創業の地 高島町給油所跡地に本社ビルの建設が決まる。新たに発展する横浜市の未来に当社の未来も重ねた決断だった。上飯田本社敷地では全ての関連会社も業務を行っていたが、(株)豊車検センターは、下川井油槽所跡地(横浜市旭区川井宿町)の有効利用も勘案し、市街化調整区域ながら横浜市の理解を得て移転する。同社は豊商会SS顧客を始めとする車検・整備・修理等の車両整備全般業務を、豊商会本体との緊密な連携を以て、現在も同地で行っている。1979年に設立した(有)ゆたか酒店は、1983年、たばこ・酒類の販売許可を取得し、1992年、旧本社跡地に建設されたライオンズマンション相鉄いずみ野に「セブンイレブン横浜日向山店」として開店させ、併せて全てのSSでたばこ自動販売機の管理も行った。1985年設立のユタカガス(株)は、プロパンガス需要が顕著な地域であるとして、同マンション1階に存続させた。豊計器建設(株)、(株)ウエスタンジュエル・ユタカ、両関連会社は高島町への移転となる。
1988年6月には現在の本社所在地に自社ビルが完成し、創業の地に復帰させた。本社が位置する横浜市西区高島一丁目は、横浜市経済局が主導する都心臨海部再開発「みなとみらい21事業」の入り口であり、大正中期に構築された高島埠頭も埋め立てられて、「リアルタイムで世界に繋がる街」(横浜市企画財政局)の構想が具体化していた。これより以前、横浜市西区高島の社有地は約400坪(1322.3平方メートル)の面積であったが、当社敷地の一部が首都高速道路の横羽線新設計画用地に重なることが決まった。
1971年、当時の後藤秀一社長の英断で、横浜市の動脈ともいえる幹線道路の建設に積極的な協力を惜しまず、土地を売却した。その結果、横浜市の開発計画は順調に推移し、現在も発展を続ける未来都市景観を形づくっていることは周知の通りである。
新本社ビルは1987年10日31日、地鎮祭を行って着工し、翌年6月10日に竣工した。建設は設計監理を当社関連会社の豊計器建設(株)一級建築士事務所が担当し、清水建設(株)が施工にあたった。建物の概要は、鉄筋コンクリート造4階建て、延床面積1,405平方メートルで、約20台収容できる駐車場を擁する規模である。4層の建物基礎は将来の発展時も考慮して、6層まで増築可能な堅固な作りとなっている。
横浜経済界との関係も、現在の地に本社を移した時点で大きく変化していた。移転と時期を同じくした横浜市政100周年、開港130周年を記念した「横浜博」が開催され、その跡地1.86平方キロメートルは、大観覧車コスモクロックと動く歩道を残し、新たな街作りへと歩みを進める。創業の高島町給油所跡地としてアクセスの良い場所に本社があることは、みなとみらい地区の発展を初期から目の当たりにし、時代の風を肌で感じながら日々を過ごすことにもつながり、社員の緊張感やモチベーションにも良い影響を与えた。現在では想像もつかないが、建設当初は屋上から山下公園まで見通せる状況で、神奈川新聞社主催の花火大会が見え、屋上ではビアガーデンを開催し、社員と家族も共に楽しむ場面もあった。みなとみらい地区に1997年6月に竣工していた日石ビルには、日本石油(株)横浜支店も桜木町7丁目から移転し、当社との緊密な連携をはじめとする横浜経済界との往来や、異業種交流の基点として政財界の人脈との繋がりを生む機能をも有していた。
先に公益優先の経営姿勢について述べたが、もうひとつ当社にとって大きな事件があったことに触れたい。1990年8月に関東地方を襲った集中豪雨の際、藤沢市内を流れる境川が濁流と化し、当社「サンリッチ藤沢」の横で県道に架かる藤沢橋が崩落した。このとき勤務中の従業員が雨中、橋を通過する車両のヘッドライトが異様に沈み込む変化に気付き、直ちに危険を察知して、橋の両側に消火器を並べて交通の往来を遮断した。同時にその異常を警戒中の藤沢警察署に通報、落橋による交通事故の未然防止に貢献した。この協力に対して藤沢警察署長から感謝状も受けている。更に藤沢橋の復旧に伴う護岸強化工事や架橋工事に際し、公共が必要とする最大限の協力を惜しまなかった。当社事業の一部に犠牲を払うというこの決断は、先に述べた後藤秀一会長の公共優先の経営理念に基づく判断に他ならず、後の東日本大震災時対応にも引き継がれている。
1992年の元旦に、後藤ヨシ子社長は「社業に懸命に邁進する姿勢が社会への貢献と社員の幸せに結びつく」という理念の下に、全社を挙げて邁進するための求心力の一つとして「社是」の制定を行った。事業の性格上まず「安全」第一に、そしてユーザーあっての事業であるから、ユーザーが「安心」して当社の製品を購入しサービスを受けられるように、更にこれらを実現させるべく会社の経営を「安定」させ、結果、社員の心と生活の安定に備えることが肝要であるとして、社是を「安全」「安心」「安定」と定めた。
本社を創業の高島町に完成移転させた6年後の1994年、当社は創業70年を迎えることとなる。この意義ある節目を活力に還元し、次の時代へのステップとなすべく、様々な企画が立案された。
1993年11月、翌年の「創業70年」を控え全社を挙げて祝うべく、社員旅行を挙行した。行き先を3泊5日のハワイとし、89名の参加者を2組に分け、ほとんどの社員が初めての真新しいパスポートを手にホノルル空港に降り立つ。滞在は専用ビーチやショッピングモールも備えた「ヒルトン・ハワイアンビレッジ」とし、貸し切りでのサンセットディナークルーズの他、ワイキキの浜から湾内夜景が一望できる「シェラトン・モアナ・サーフライダー」で記念撮影と共に祝賀パーティーを行った。
対外的には翌1994年6月、横浜みなとみらい21に竣工間もないランドマークタワー70階のロイヤルパークホテル宴会場「シリウス」において、「70年を70階で」と銘打ち、感謝を込めて関係先を招待し祝賀パーティーを行った。横浜港を眼下に、伝統芸能「太神楽」海老一染之助染太郎が、一座の決め台詞「おめでとうございます~」で華を添えた祝賀会であった。
創業から70年ともなると資料の散逸や、記憶する者の所在も不確かとなり、記録保持の観点からも必要、と社史を刊行した。後藤秀一会長のもとへ、創業当時からの詳細な経緯と資料を求めて、執筆者が日参し記録した。聞き取りを繰り返しながら約半年を費やし、表紙は本社ビル外壁と同色にし、見返しには、宇宙イラストの世界的第一人者、岩崎一彰氏の作品から、燃え上がる太陽エネルギーの迫力ある作品の提供を受け、社業イメージに相応しい社史が出来上がった。前述した創立70年祝賀パーティーでは、出席者への記念品のひとつとして贈呈した。
かつて社内機関誌として「ゆたか」が発刊されていた時代があったが、その後「ユタカ会」として関連会社も一体となった従業員主導の親睦組織が1973年に誕生している。主として社員旅行の立案やクリスマスケーキ配布、横浜スタジアム・シーズンシートのチケット配布等の活動を行っている。現在は休部中の野球部が、特約店軟式野球大会で優勝したことも度々である。1982年入社から39年間勤務した館山まさ子は、創立70年記念で行ったハワイや折々の社員旅行の印象を生き生きと語っている。ハワイを始めとして、長崎のハウステンボス、サイパン、タイのバンコク、金沢と能登半島、グアム、浜名湖など、多方面への旅行は特に思い出深いそうだ。旅行の楽しさを知り、以来休日を生かして国内旅行を楽しんだという。因みに館山まさ子は危険物取扱者の資格を取得し、SSのサブマネージャーとして女性管理職の先駆けとなった社員でもある。
1996年夏、たまたま休日出勤していた社員が受けた電話が発端で、新たな経営戦略「廃棄物収集運搬」の仕事が始まった。一定規模以上は既に有料化されていた横浜市の事業系排出ゴミが、飲食店や小規模事業所などを含め全て有料化されることに伴い、既存の許可業者のみでは収集に対応できない見通しとのことで、40年ぶりに「一般廃棄物収集運搬業」の新規事業者の許可申請を受け付ける、というものだった。報告を受けた後藤ヨシ子社長は即座に「許認可事業は堅実」という認識を持ち、後藤元信取締役の「ゴミは宝」という直感が背中を押して、直ちに取締役会を招集し当社の新規事業として取り組むことを決定する。当社の「石油」という取扱い品目が、産業廃棄物とは切っても切れない関係にあり、その処理に日常接していたことから違和感がない事業としての意識もあった。
当社の排出ゴミも含め既に有料化されている一定規模以上のテナントビルや大規模事業所は、既存の業者が既に契約済みで収集しており、新規参入業者は厳しい事業環境に直面した。当時は多くの許認可業者が「名義」としてのメリットを有していたのに対し、新規参入業者は1997年5月から「月間100トンのゴミを収集する実績を伴う」取り組みが必須だった。多忙極まる毎日に追われた担当者が横浜市の説明会会場を出るなり吐血したこともあり、石油業界とは「畑違い・別世界」の感は否めなかった。
横浜市とは「石油」を通して長年の協力と信頼関係が存在したものの、許可申請段階では、当社には不向きな事業という見解があった。しかしながら、ゼロからの出発という地道な姿勢が次第に共感を得、全面的な協力を得ることになる。また、同時期に横浜市への新規参入業者として東京都で実績のある大手廃棄物収集運搬業者からの知己を得、新規参入業者としての連帯感からそのノウハウの多くを学んだ。それでも廃棄物収集運搬事業に対する経験不足は否めず、日々試行錯誤の連続であった。
一般廃棄物収集運搬業の許可申請と平行して、産業廃棄物収集運搬業の許可申請も取得した。永年培われた石油製品での取引先との信頼を基盤とし「一般廃棄物収集運搬」のみならず「産業廃棄物収集運搬」の契約を順次締結することができた。利益率は比較的良いものの、所詮、取扱高は本業の比ではなく、極めて困難な状況が続いた。但し、社業将来の二本柱として、その基礎に着手した事は大きな第一歩である。社内的にも異業種が同じフロアーにあることは、社員同士の連帯感を伴いながら業務を超えた協力体制が好循環をもたらし、事業の二本柱として定着しつつあった。