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第1章◆草創期

 
 
当時の石油業界の状況
   
桜木町―高島町の道路舗装工事(昭和元年〜)

大正13年の開業当時、当社が「代理店」となった三菱商事燃料部の石油販売量は、ライジングサン、日本石油、スタンダード石油会社に次ぐ規模であった。米油と提携して三菱が販売していた「赤コップ印」ガソリンは、昭和3年に商工省が調査報告した資料によると国内総数の約4.49%であった。対するライジングサン「赤貝印・黒貝印」は29.5%、日本石油「煽短(コーモリ)印」は27.2%とトップ2社が大きなシェアを占めていた。4杜の他には小倉石油、三井物産、シーボード(メキシコ系、輸入元・岩井商店)などの銘柄もあったが上位3社だけで国内需要の約77%を抑えていたのである。大正の終り頃から新しいエネルギー源として「石油」が抬頭しはじめるが、産業用燃料としてはまだまだ石炭に依存する時代であった。第1次世界大戦が終った後、世界は石油の重要性を認識し、わが国においても政府が大正12年に石油調査会を設けて国内での石油精製を行うことを検討した。この状況を受けて、三菱商事は同系の鉱業会社を通じて石油資源の調査・開発と利権獲得に努力し、正式に石油取引を始めることを決め、サンフランシスコのアソシエイテッド石油会社との提携交渉を進めた。役員を同社に派遣し、国内における製品販売を三菱に一任されるよう交渉を重ねた結果、同12年12月、同社との間で石油輸入の契約が締結された。三菱商事の取扱いとして揮発油・灯油(コップ印・時計印)を販売することになったのである。しかし、揮発油・灯油などの販売には一般販売店を通じて需要家に供給する組織が必要であり、三菱も当時の有力業者であるスタンダード石油・ライジングサン石油・日本石油らと同様の特約店・代理店網の構築を図っていった。
三菱商事は大正13年4月に揮発油などの国内販売を開始した。その基礎となった特約店網は、わが国から撤収した「テキサス日本支社」(横浜山下町53番地。大正11年12月頃、三菱二十一号館に移転)の旧特約店の中から選択してつくった、と『三菱石油50年史(三石50年史)』は書いている。昭和56年に刊行された「三石50年史」は、第1章を同社の「創業前史」にあて、「特約店の設置」の項目で揮発油、灯油、潤滑油に関して詳しく記述しており、これが当社に関係深い部分なので次に引用しておく。

―― 販売には供給する組織が必要であった。当時、わが国内における有力業者であったスタンダード石油、ライジングサン石油(のちのシェル石油)および日本石油は全国に特約店網をしいていたので、商事も同様の方針の下に、特約店の設置に努力した。ちょうど、偶然にも以前からわが国に進出していたテキサス石油が、なにかの都合で本国に引き揚げたので、その供給源を失った販売店の中から優秀なものを選択して採用し、特約店網をつくることができた。特約店の最初は吉川安遠(のちの豊商会)と神田松彦(神田商会、のちに東京菱油商会と改称)の2店であったが、続いて東京では、塚本、恵谷、後藤、相馬、中田等特約店網は広まっていった。しかしながら、スタンダード石油やライジングサン石油の勢力が強く、販売は容易ではなかった。――

当社創業当時に扱った
ガソリンの商標

「三石50年史」本文が始まって4ページ目という重要な場面に記載される「吉川安遠」は当社を創業した後藤張幹の恩師であり、横浜豊商会開業の勧誘をした人物であることはすでに記述したとおりである。特約店第1号となった吉川安遠と神田松彦は、三菱に初めて入荷した「コップ印」のガソリン500箱(1箱18リットル入り缶2缶入り)をそれぞれ250箱づつ受領し、一般に販売したのである。昭和4年ころの三菱特約店は13軒であった。神奈川県下では豊商会横浜出張所と山中商店(中村氏)の2軒だったが、豊商会はこれに山梨県が販売区域として与えられていた。当時の三菱燃料部との取引においても「代理店」(現在の特約店)資格を得ることは非常に難しく、証拠金を積むことは当然である。出荷量も差し入れた証拠金の範囲内だった。しかし歩合戻しは20〜30%あり割合有利な利潤が得られた模様だ。