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第1章◆草創期

 
 
大正末期から昭和初期
   
ガソリンガールによる給油風景

既述したように、当社が創業した当時の県下の石油販売業者は2、3の例を除いて、すべて植物油業者が「石油」を兼業しており、彼らは問屋の下で任意団体を組織していた。この販売業者が扱っていた植物系とは胡麻油、菜種油その他などで、これを「灯油・車両油」の商品として販売していた。昭和初年ころまでの「ガソリン販売」は石油缶2缶を木箱詰めにしたものを1単位の取引としていた。同時に、このころからぼつぼつポータブル計量機が登場し、油屋の手で直接、自動車の燃料タンクに注入するようになった。そして計量機のあるスタンドでは例外なく「ガソリンガール」によって機械操作され、美人ガールたちは街の花形ともいうべき存在となった。ガソリンガールの中には、選ばれて「ミス松屋デパート」になった女性もあって、婦人の職業としては進歩的なものであった。石油業界は外油糸商社の強力な資本をバックにした攻勢を素因として、国産製油会社との間で、常に猛烈な価格競争が続いており、これを受けて各販売店間のサービス競争も熾烈を極めていた。女性従業員(ガソリンガール)は特段定めたユニホームというものもなく、和服にエプロン掛けといういでたちで店頭に立ち、給油だけではなく給油客にお茶や煎餅を出したり、10ガロン(約38リットル)ごとに煙草「ゴールデンバット」1個を進呈するサービスなども行って売上を伸ばした。給油客の中にはガソリンガールがいないと給油せずに帰ってしまったり、値段の高い安いもさして問題とならなかったので、女性従業員だけで運営させる経営者も出て、同業者間の競争はさらに激しくなっていった。当社でも「駿河橋給油所」は男性主任1人を除いて4人の店員がガソリンガールという時代があった。駿河橋給油所は横浜でも都心にあるため顧客にタクシー業が多く、終夜営業をする態勢も同店から始まり、同給油所では正月3が日には「汁粉」を振る舞った記録も残っている。

 
1990年代のサンリッチ吉野町、
交通標識に駿河橋の文字がある
   
昭和8年、「日ソ石油」が輸入 販売されるようになると販売合戦はさらに激しくなり、対抗する元売6社が1ガロン(約3.8リットル)あたり特約店渡し価格40銭と協定したが守られず、ついには26銭まで暴落するという状況があった。昭和5年に助手から正式運転手となったある顧客は、「相生町にあったスタンドでは5ガロン1円55銭だった。これにガソリンガールから煙草1箱を手渡され、コーヒー付きのサービスだった」という。当時のタクシー営業は、T型フォードを1時間2円で賃借し、燃料運転手持ちで流していたようだ。根岸競馬の開催日には競馬場と桜木町駅、横浜駅間をピストン輸送し、相乗り1回6〜7円の稼ぎとなったという。当時の営業車は最大8人乗りの乗用車で合計37台、横浜ハイタク業界の草創期でありまだ少なかった。「青タク」と呼ばれた富士屋自動車(箱根富士屋ホテル経営)を除いては、1台持ち業者が中心だった。活動の拠点は横浜駅前で、裏高島町1丁目1番地に設立された横浜市街自動車(株)が有利であった。大正7年12月、T型フォード16台で発足した同社は後に数社との合併を経て神奈川都市交通に発展、高島町交差点近くの同社ビル1階には、当社も事務所を置いたこともあった。