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第2章◆発展期 /張幹社長から秀一専務時代へ

 
 
「ガソリン販売専門店」の先駆
   
当社が創業する以前の石油販売業界は土地の旧家・有力者が営む「問屋」が仕切っていて、売り手は卸問屋の店子のような存在であった。大八車に灯油など各種の油を積み込んで行商し、その後、問屋の信用を得て暖簾分けの形で店を持った者が多かった。このような形態は大正時代でも同様である。旧時代的な風習が残る「油屋」の世界だった。 そこへ後藤張幹は「ガソリン販売の専門店」として乗り出したのであった。

張幹は新田時代に、最新工業商品を製造する機械部品としての動力用ベルトや、国産初の合板を朝鮮・満州・中国大陸・インドまで拡販し営業手腕は抜群であった。「東京豊」吉川安遠との提携による開業も、最初から商社三菱の燃料部と直に取引する「卸販売業」(代理店)の創業であった。他の油屋の多くが丁稚奉公から勤めあげ、やがて暖簾分けで自分の店を持つスタイルとは明かに異なっていた。その当時の「油屋」は着物姿で得意先を回って注文取りをしていたが、豊商会だけは背広姿で顧客を訪問していたのである。後藤張幹と社員も、ともに新田時代に身に付けた近代的経営法を旧態依然たる「油屋」の世界に持ち込んだため、業界の一部からは「異端視」される場面もあったといわれる。
かつて片瀬給油所があった場所(左手角)
森は大本山竜口寺山内
やがて昭和3年には片瀬給油所も経営するようになっていった。片瀬給油所は大船一片瀬問に自動車専用道が建設された際に竜口寺横に立地する当社3番目のSSである。同年8月開通した専用道「日本自動車道」は、ロンドン留学から帰国した菅原通済が「江の島へ至る世界最初の賃取り自動車専用道路を思い立った」ことから計画され、湘南電軌(京急)の株主らが発起人となって敷設されたもので、自動車通行だけを目的にしたため、出入口両端に給油所が設置され、江の島側出入口の京急所有地に三菱燃料部が建物設備を建設、当社が運営を受託した。同給油所は戦後、三菱石油と交渉して当社が買収して直営化したが、消防法との関係から昭和44年1月をもって閉鎖した。なお現在「湘南モノレール」が運行され、観光客と沿線市民の交通に供されている。

当社はこうして横浜に2か所、藤沢に1か所のガソリンスタンドを運営することにより、瞬く間に業界での有力な地位を築いていき、県内における三菱石油の代理店として最右翼の存在になっていったのである。
片瀬給油所が営業を開始した昭和3年の、わが国における自動車保有台数は6万台強で、現在からは想像できないほどのものであったが、当時とすれば急速な発展途上のさ中にあった。
前稿の「片瀬給油所」に関連して、「戦後になって当社は三菱石油と交渉して同給油所の払い下げを受けた」という記述をしたが、それを裏付ける後藤張幹社長自筆の「覚え」が現存する。次に掲載しておく。
この手紙によると後藤張幹は「高島町と吉野町給油所は既に三菱石油から譲渡を受けているが、片瀬給油所のみはまだ手続きが終っていない。
よって当初の約定の通り御高配賜りたくよろしく申し上げます」と督促しているものと推測できる。後藤張幹からの宛先となっている「西本龍三」氏は当時営業部部長、後に常務取締役に就任し、昭和46年に勇退した人物である。当社豊商会は開業以来の営業施設を三菱商事燃料部と、その後にこれを継承した三菱石油の資金で建設してもらい、給油所を受託経営していたわけだが、戦前の創業時に遡った石油販売業界の仕組みと経緯が伺えられる文書となっている。


<片瀬給油所> 設備その他概要
敷地面積 17,69坪 (約58,4平方メートル)
事務所
5,00坪
(約16,5平方メートル)
プロパン置場
3,80坪
(約12,5平方メートル)
地下タンク
(容量1000ガロン 1基
 
計量機 S型   1基(時計式)
用地は京浜急行所有