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第2章◆発展期 /張幹社長から秀一専務時代へ

 
 
新体制への始動
   

石油業界に元売制度が復活し、当社も自主的な企業経営ができることとなったが、切符制による統制は継続していた。その目的は消費規制と公定価格の維持にあった。
しかし専売制は廃止され、代わりに従価に対して100パーセントの石油税が課され小売値と同じ税額を需要家が負担することとなった。日米講和条約の締結が発効するまでは、まだ石油の行政権はわが国にはなかった。切符制による価格統制が解除されるのは昭和27年7月であった。この間、同25年6月に朝鮮動乱が勃発し、未曾有の特需ブームが押し寄せ、日本経済はわずか2年半で簡単に戦前水準を回復し、高度成長への途を拓いていった。
統制撤廃を目前に控える昭和27年6月、社長は全国石油協会総会に神奈川県支会常任埋事の資格で出席し、「統制撤廃後における市場安定策と業界の結束を強く求める」と発言、まとまりのない業界体質と自由化後の過当競争を予測して憂慮した。
こういう経過を経て、県下に70石油販売業者の賛同を得て「神奈川県石油業協組」が設立され、設立発起人である後藤張幹も10名の理事の1人として選任された。この協組設立による業界の一本化は東京に先んじた。このときに協定された自動車用揮発油の価格は1リットル35円(65、72オクタン価共通)、白灯油1リットル24円、軽油1リットル19円というものであり、約3年前の24年暮の統計で全国に28万台に及ばなかった自動車台数が、この年9月には65万台と増えていた。昭和25年6月10日付けで当社が建設省藤沢土木出張所へ提出した製品納入見積書をみると、当時の大口需要家に対する価格が、表のようになっていて状況が把握できる。

藤沢土木事務所宛の、秀一が事務用箋に書いた見積書


鉱工業生産指数が戦前最盛期(昭和9−10年)の基準の128まで復活、産業全体における設備投資が旺盛となっていった。中小企業でも小型トラックの購入と使用が伸び、26年12月、石油経済新間社が調べた自動車用揮発油「神奈川県販売量ベストテン」で当社は1,020キロリットル(卸含む)を計上、同業者に互して「6位」に位置され、社員の会社に対する意識が大いに発揚したものである。
なお当社は、昭和24年8月1日に藤沢西給油所を開設し、同27年4月1日に従来の吉野町給油所を改築して再開店し活発な事業展開に励んでいた。昭和26年3月に入社し、以来、専ら潤滑油畑を歩いて来た神山隆二は、「入社当時はまだ統制下で、1号線のスタンドも当社の高島町給油所から藤沢遊行寺下の神奈川石油までの間に、戸塚平戸と戸塚警察署隣の内田さんとの、合わせて4軒しかありませんでした」と回顧する。

戦後の立上がりから公団を中心に石油販売業界のため、また豊商会の再建に力を尽くして来た後藤張幹社長だったが、年齢的にも還暦を過ぎると過労は響き、数年前から心身に変調がみえていた。28年4月6日も自宅で気分が悪くなり、日頃、家族の主治医として付き合いがあった日浦幸助医師の往診を受けた。しかし、初めは単なる疲労と軽く見ていたものが、日を追うに従って変調は深くなっていった。しかし本人の、少し仕事を休めば治るのではないかという意識もあって、当分の間、自宅療養で回復するのを待ったのである。結局、そのまま病状は進み、医師も脳硬塞と断定せざるを得なかった。

当社にとって創業者である後藤張幹が卒中(脳硬塞)で倒れた影響は大きく、とくに取引をしていた銀行の動きには厳しいものがあった。社長は戦前はもちろん、終戦直後の混乱当時から事業を立ち上げてきただけに、能力と手腕は当社経営の唯一頼みとするものであり、その大黒柱が病気に倒れたことから銀行側は大きな危機感を持ったのである。
終戦から5年、朝鮮特需ブームが始まり未曾有の盛況を迎えようとする中で、前年6月に石油製品の統制が撤廃され公定価格も廃止となり、事業を軌道に乗せ、これから拡大発展をしようという時であった。後藤張幹は、県下に石油業協同組合が設立されて理事で参加し、業界で有力な地位を固めようとしていた。まだ日本石油東京営業所管轄の特約店は82店と少なく、うち都内の業者31を除けば関東地方ではわずか51店のうちの1社という位置にあった。

市電停留所越しに見た高島町SS