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第3章◆充実期 /後藤秀一の時代

 
 
急成長した当社態勢
   

昭和30年を迎えると、通産省は「国民車構想」を発表して大衆消費時代の幕開けを告げ、わが国に本格的なモータリゼーションの花が咲こうとしていた。自動車の普及も戦後、安くて小回りがきくともてはやされたオート三輪から、ダットサンやトヨエース、など、小型四輪トラクタにウエートが移っていき、大量生産による低廉価は個人商店でも購入を可能にしていった。
1年後に発表された経済白書は、「もはや戦後ではない」との書き出しで始まり、あたかも石油産業の豊かな将来性を指しているかのようであった。国民総生産の伸びと共に重化学工業が好況を迎え、石油コンビナートが全国各地の臨海部に続々と建設され、一気に石炭から石油へのエネルギー転換が進行していった。
神武景気を境に三菱 500や日産ブルーバード、軽乗用車スバル 360など、個人向け乗用車が開発され、50〜60万程度で購入できる価格設定であったため、一般勤労者の間に急速に普及していった。その結果、当社の業務が直接担う自動車燃料としてのガソリン販売も急増し、同時に販売競争の激化が台頭しはじめたのである。
昭和 30年末の全国の給油所総数は、1,729か所になっており、わが国の産業を下支えする中小零細企業の活動は益々活発になり、自動車の増加は、ガソリン、軽油の需要増加をもたらせていた。
昭和 31年2月、当社は東神奈川給油所の運営を開始したが、同時期には日本道路公団の「ワンマン道路」(横浜新道)も開通し、販売競争が一層激化する兆候を見せ始めていた。
同 30年に、県下の給油所は73か所であったものが、3年後の33年には238か所と3倍以上も増加し、さらに3年後の36年には411か所と、約5年間に 6倍近い伸び率を見せて、業界競争は激化していった。
この成長率は、昭和 57年度まで突き進み、石油販売業界に構造改善の認識を新たにさせることとなっていく。しかし、まだ時代は販売競争に勝つための方策以外にとるべき手段はなかった。当社は、この時期、昭和 27年4月1日に吉野町を改造オープンさせて以来、順調にサービスステーションを順次開設させて運営し、現在の販売体制の基礎を固めていった。