豊商会の歴史

豊商会の歴史SINCE1924 … そして未来へ

第1章 揺籃・草創(1924~1977)後藤張幹の時代

株式会社豊商会の前身は大正13年8月1日に開業した豊商会横浜出張所である。後藤張幹は個人商店で出発した。当時この業界は「油屋」と呼ばれていたが、豊商会は油屋としては特殊のガソリン販売を主とする専門店であった。
県下における石油販売は胡麻油、菜種油、椿油などを扱う植物油業者が兼業しており、当社豊商会のような石油販売専門店は例外であった。

豊商会横浜出張所開業

創業者後藤張幹・トキ夫妻創業者後藤張幹・トキ夫妻

株式会社豊商会の前身は大正13年(1924)8月に創業した有限会社豊商会横浜出張所である。後藤張幹(はるき)が、尾道商業学校時代の英語教師吉川安遠の勧めにしたがって三菱商事燃料部代理店として中区桜木町7丁目で開業した。この年、後藤張幹は弱冠33歳であった。

前年の関東大震災からほぼ1年、市内はまだ復興の途上にあったが、その事業の中心は道路網整備となって高島町を軸とする神奈川 ― 保土ヶ谷線の拡幅舗装工事が急がれていた。横浜市は廃墟の中から、新たな都市づくりを道路交通に主眼を置いて進め、あたかも自動車時代の到来を予期させるかのようであった。東京の吉川安遠の「有限会社豊商会」は、大正13年4月、三菱商事が石炭・石油両部門を合併して燃料部と改称した際に第1号の特約店となったもので、三菱商事燃料部と同じ東京丸の内「三菱廿一號館」に本社を置く会社だった。しかし、吉川のパートナーとなった後藤張幹の横浜での開業はこの横浜出張所という名目ではあるが、資本上、独立した経営組織で出発した。

当時の石油業界の状況

桜木町―高島町の道路舗装工事(昭和元年~)桜木町―高島町の道路舗装工事(昭和元年~)

大正13年の開業当時、当社が「代理店」となった三菱商事燃料部の石油販売量は、ライジングサン、日本石油、スタンダード石油会社に次ぐ規模であった。米油と提携して三菱が販売していた「赤コップ印」ガソリンは、昭和3年に商工省が調査報告した資料によると国内総数の約4.49%であった。対するライジングサン「赤貝印・黒貝印」は29.5%、日本石油「煽短(コーモリ)印」は27.2%とトップ2社が大きなシェアを占めていた。4杜の他には小倉石油、三井物産、シーボード(メキシコ系、輸入元・岩井商店)などの銘柄もあったが上位3社だけで国内需要の約77%を抑えていたのである。大正の終り頃から新しいエネルギー源として「石油」が抬頭しはじめるが、産業用燃料としてはまだまだ石炭に依存する時代であった。第1次世界大戦が終った後、世界は石油の重要性を認識し、わが国においても政府が大正12年に石油調査会を設けて国内での石油精製を行うことを検討した。この状況を受けて、三菱商事は同系の鉱業会社を通じて石油資源の調査・開発と利権獲得に努力し、正式に石油取引を始めることを決め、サンフランシスコのアソシエイテッド石油会社との提携交渉を進めた。役員を同社に派遣し、国内における製品販売を三菱に一任されるよう交渉を重ねた結果、同12年12月、同社との間で石油輸入の契約が締結された。三菱商事の取扱いとして揮発油・灯油(コップ印・時計印)を販売することになったのである。しかし、揮発油・灯油などの販売には一般販売店を通じて需要家に供給する組織が必要であり、三菱も当時の有力業者であるスタンダード石油・ライジングサン石油・日本石油らと同様の特約店・代理店網の構築を図っていった。

三菱商事は大正13年4月に揮発油などの国内販売を開始した。その基礎となった特約店網は、わが国から撤収した「テキサス日本支社」(横浜山下町53番地。大正11年12月頃、三菱二十一号館に移転)の旧特約店の中から選択してつくった、と『三菱石油50年史(三石50年史)』は書いている。昭和56年に刊行された「三石50年史」は、第1章を同社の「創業前史」にあて、「特約店の設置」の項目で揮発油、灯油、潤滑油に関して詳しく記述しており、これが当社に関係深い部分なので次に引用しておく。

販売には供給する組織が必要であった。当時、わが国内における有力業者であったスタンダード石油、ライジングサン石油(のちのシェル石油)および日本石油は全国に特約店網をしいていたので、商事も同様の方針の下に、特約店の設置に努力した。ちょうど、偶然にも以前からわが国に進出していたテキサス石油が、なにかの都合で本国に引き揚げたので、その供給源を失った販売店の中から優秀なものを選択して採用し、特約店網をつくることができた。特約店の最初は吉川安遠(のちの豊商会)と神田松彦(神田商会、のちに東京菱油商会と改称)の2店であったが、続いて東京では、塚本、恵谷、後藤、相馬、中田等特約店網は広まっていった。しかしながら、スタンダード石油やライジングサン石油の勢力が強く、販売は容易ではなかった。

当社創業当時に扱ったガソリンの商標当社創業当時に扱ったガソリンの商標

「三石50年史」本文が始まって4ページ目という重要な場面に記載される「吉川安遠」は当社を創業した後藤張幹の恩師であり、横浜豊商会開業の勧誘をした人物であることはすでに記述したとおりである。

特約店第1号となった吉川安遠と神田松彦は、三菱に初めて入荷した「コップ印」のガソリン500箱(1箱18リットル入り缶2缶入り)をそれぞれ250箱づつ受領し、一般に販売したのである。昭和4年ころの三菱特約店は13軒であった。神奈川県下では豊商会横浜出張所と山中商店(中村氏)の2軒だったが、豊商会はこれに山梨県が販売区域として与えられていた。当時の三菱燃料部との取引においても「代理店」(現在の特約店)資格を得ることは非常に難しく、証拠金を積むことは当然である。出荷量も差し入れた証拠金の範囲内だった。しかし歩合戻しは20~30%あり割合有利な利潤が得られた模様だ。

大正末期から昭和初期

ガソリンガールによる給油風景ガソリンガールによる給油風景

既述したように、当社が創業した当時の県下の石油販売業者は2、3の例を除いて、すべて植物油業者が「石油」を兼業しており、彼らは問屋の下で任意団体を組織していた。この販売業者が扱っていた植物系とは胡麻油、菜種油その他などで、これを「灯油・車両油」の商品として販売していた。昭和初年ころまでの「ガソリン販売」は石油缶2缶を木箱詰めにしたものを1単位の取引としていた。同時に、このころからぼつぼつポータブル計量機が登場し、油屋の手で直接、自動車の燃料タンクに注入するようになった。そして計量機のあるスタンドでは例外なく「ガソリンガール」によって機械操作され、美人ガールたちは街の花形ともいうべき存在となった。ガソリンガールの中には、選ばれて「ミス松屋デパート」になった女性もあって、婦人の職業としては進歩的なものであった。石油業界は外油糸商社の強力な資本をバックにした攻勢を素因として、国産製油会社との間で、常に猛烈な価格競争が続いており、これを受けて各販売店間のサービス競争も熾烈を極めていた。女性従業員(ガソリンガール)は特段定めたユニホームというものもなく、和服にエプロン掛けといういでたちで店頭に立ち、給油だけではなく給油客にお茶や煎餅を出したり、10ガロン(約38リットル)ごとに煙草「ゴールデンバット」1個を進呈するサービスなども行って売上を伸ばした。給油客の中にはガソリンガールがいないと給油せずに帰ってしまったり、値段の高い安いもさしT型フォードて問題とならなかったので、女性従業員だけで運営させる経営者も出て、同業者間の競争はさらに激しくなっていった。当社でも「駿河橋給油所」は男性主任1人を除いて4人の店員がガソリンガールという時代があった。駿河橋給油所は横浜でも都心にあるため顧客にタクシー業が多く、終夜営業をする態勢も同店から始まり、同給油所では正月3が日には「汁粉」を振る舞った記録も残っている。

1990年代のサンリッチ吉野町、交通標識に駿河橋の文字がある1990年代のサンリッチ吉野町
交通標識に駿河橋の文字がある

昭和8年、「日ソ石油」が輸入、販売されるようになると販売合戦はさらに激しくなり、対抗する元売6社が1ガロン(約3.8リットル)あたり特約店渡し価格40銭と協定したが守られず、ついには26銭まで暴落するという状況があった。昭和5年に助手から正式運転手となったある顧客は、「相生町にあったスタンドでは5ガロン1円55銭だった。これにガソリンガールから煙草1箱を手渡され、コーヒー付きのサービスだった」という。当時のタクシー営業は、T型フォードを1時間2円で賃借し、燃料運転手持ちで流していたようだ。根岸競馬の開催日には競馬場と桜木町駅、横浜駅間をピストン輸送し、相乗り1回6~7円の稼ぎとなったという。

当時の営業車は最大8人乗りの乗用車で合計37台、横浜ハイタク業界の草創期でありまだ少なかった。「青タク」と呼ばれた富士屋自動車(箱根富士屋ホテル経営)を除いては、1台持ち業者が中心だった。活動の拠点は横浜駅前で、裏高島町1丁目1番地に設立された横浜市街自動車(株)が有利であった。大正7年12月、T型フォード16台で発足した同社は後に数社との合併を経て神奈川都市交通に発展、高島町交差点近くの同社ビル1階には、当社も事務所を置いたこともあった。

高島町に進出

やがて陸上交通の発展と共にガソリン販売も興隆期を迎えると当社は紅葉ヶ丘下の給油所だけでは対応できなくなり、昭和6年、元料理屋を買収して表高島町に移転することを決めた。同地は現在の本社が立つ場所であり、元鍋島侯爵家が所有する土地であった。佐賀の鍋島家は、当社より3年早く高島通りに進出した崎陽軒も社史の中で「鍋島家所有の土地、約800坪の買収に成功した」と記述しているように横浜とは開港以来所縁があったようだ。

現在地と同じ表高島町2番地に本店を移した豊商会は、三菱商事燃料部の資金援助(後に三菱石油に引き継がれる)を得て、地下タンクを設置した近代的なガソリンスタンドを建設した。同時に、それまでは店と住まいが一緒だったものを分離し、自宅を平沼町に構えた。当初は2人で出発した事業も大きくなり、社員も6~7名と増え、経理係や当直要員などという専門の職員も擁するようになっていた。

大正4年製のガソリン給油機 大正4年製のガソリン給油機

このころになると、顧客も不安定なタクシー業など個人営業者から、横浜市役所、横浜税関、三菱海上火災、市警察加賀町署・伊勢佐木署などの官公庁や大手企業と取引が広がり、横浜税関へは大型ローリー(回槽自動車)で直接納入するほどの販売量があった。さらに吉野町に駿河橋給油所を建設して支店とし、次に大船 ― 片瀬間に自動車専用道路が建設された際、江の島側出入口角の竜口寺側に片瀬給油所を建設した。これによって当社は「三菱の代理店の中でも大手であったので、しばしば販売方法について懇談する場を持った」(当時三菱燃料部社員、後に京極運輸常務)という位置に立っていったのである。日本フォードが震災を機に中村町から神奈川区守屋町に工場を移してフル生産に励み、自動車を中心とする陸上交通はいよいよ盛んとなっていった。後藤張幹社長もいくらか心に余裕ができてきたのか、親しい同業者と共に「謡曲」や「書」を習い始めたのもこの頃であった。

昭和9年に入ると京浜重工業地帯のエネルギーを一手に賄う横浜港には内外各地から石油が到着し、横浜経済の興隆は益々上がっていった。満州国の石油専売法に刺激されて鶴見・神奈川・川崎港へ到着する石油輸入量は急激に増え、連日1万トン級の巨船が横付けされ、12月1か月だけで10万トンを超える記録があった。日産自動車がダットサンの量産を開始したのも同月であり、庶民の間にもオート三輪が出回る時世となったのである。当社創業時に社員が使用していたオート三輪は二葉商会製のインディアン号で、無免許で運転できる小型自動車であった。2サイクル350cc、4サイクル500ccの2種が規格とされ、最大積戟量60貫(約230キログラム)、速度16マイル(時速26キロ)というもので750円の価格だった。当社がこれを導入したのは開業間もない大正13年だったが、この頃の財閥系会社の初任給は帝大、東京商大出、早慶卒で75円、明治など東京の私大出と官立高商卒で65円の時代である。

石油協会の設立相次ぐ

わが国石油業界に初めて組織らしい組織作りが行われたのは、昭和5年、東京にあった各系列の代表格としての大手特約店7社の発起によって「石油協会」が結成されたのが嚆矢となる。当時、外油系としてライジングサン(欧州系)、スタンダード(米国系)、三菱(米国系輸入会社)、愛国、昭和などの製油会社があり、その勢力は外油国産ほぼ半々であったが、業界内には外油系商社の強力な資本をバックにした攻勢が素因となって、常に猛烈な販売競争が続いていた。

これを嫌った前出7杜は「過当競争を改むるに非ずんば‥」の趣旨をもって任意の東京石油協会を結成したのである。「神奈川石油協会」はこの数年後に県内大手特約店10数人によって結成、磯部孝次郎を会長に、当社後藤張幹が筆頭メンバーに加わっている。これによって県下に繰り広げられている激しい競争に終止符を打とうとした。一方、顧客は、大半が経営基盤の弱いタクシー業や運送業であり、しかも業者は1台持ちの個人経営で、売掛金のこげつきは決して珍しいことではなかった。ガソリンを扱うどこの小売店でも、大なり小なり代金不払いに苦しんでいたのである。

高島町1丁目付近に開業した2代目省線横浜駅(大正14年) 高島町1丁目付近に開業した2代目省線横浜駅(大正14年)


豊商会開業から昭和10年全国自動車保有台数の推移
台数(台) 前年比(%)
大正13年 20,587 127.7
14年 26,446 128.5
昭和元年 35,802 135.4
2年 46,293 129.3
3年 60,533 130.8
4年 71,555 118.2
5年 106,606 149.0
6年 118,241 110.9
7年 125,136 105.8
8年 134,612 127.7
9年 156,582 116.2
10年 176,252 112.6

トラック・バス・乗用車・小型四輪車・オート三輪・二輪車・特殊車の合計
(資料)近代日本輸送史

「横浜豊商会」開業

横浜市中区桜木町7丁目で開業した横浜豊商会は、業務の伸長に従い同5丁目「紅葉橋」際に移転し、昭和4年2月、現在地と同じ高島町に給油所を移転開設した。数年前から市内均一料金で乗れる「円タク」が登場し、当所が創業した雪見橋際にあった30台規模で営業する横浜小型自動車(古旗頼章社長)などとの取引が始まっていた。創業者の後藤張幹がセールス用に使っていた単車も四輪車のフォード・ロードスターに乗り変えている。社長の車好きは際立っていたようで、当社が昭和44年に発行した社内誌『ゆたか』に社員の安岡久一が一文を投稿した。

私は豊商会創立35年目の夏に入社した。10年前だった。私がある顧客に当社も創立45周年を迎えましたと感謝の気持ちと共に挨拶をすると、顧客は「42年前、昼間、1時間に自動車がものの5台位しか通らなかったこの東海道にフォード・ロードスターを乗りこなしていた片瀬の後藤さんを、よく見掛けたものだ。とても張り切っていて、俺たちの憧れの的だったんだよ」これを開いた私は、一層の奮起を促された思いであった。

当時の三菱「コップ印」ガソリンは、赤印の方が黒印より高級であった。高級とはいえ現在のガソリンとは比べものにならないくらい悪臭がひどく、またオクタン価もゴールドガソリンの半分以下ではなかったかという代物であった。質の向上はもっと時代が下がってからである。当時、自動車は精密機械であると同時に高級品であり、需要家は質の悪いガソリンを1度、鹿革の漉し袋で漉してからタンクに注入したようだ。

5年正月、本社前の大踏切の高架化工事が終り、桜木町一高島町間に省線電車(院電)が乗り入れるようになり、東横電車が桜木町乗り入れのため新駅建設工事に着手した。同年4月、のちに専務となる後藤秀一が神奈川懸師範付属小学校に入学している。この当時の横浜市内における主な同業者にはライジンクサン系の神谷三市、若葉町の秋本=小倉石油系、港町の金杉=小倉系、スタンダード系の三橋正次、松影町の松村儀三郎各商店などがあった。

「ガソリン販売専門店」の先駆

当社が創業する以前の石油販売業界は土地の旧家・有力者が営む「問屋」が仕切っていて、売り手は卸問屋の店子のような存在であった。大八車に灯油など各種の油を積み込んで行商し、その後、問屋の信用を得て暖簾分けの形で店を持った者が多かった。このような形態は大正時代でも同様である。旧時代的な風習が残る「油屋」の世界だった。 そこへ後藤張幹は「ガソリン販売の専門店」として乗り出したのであった。


張幹は新田時代に、最新工業商品を製造する機械部品としての動力用ベルトや、国産初の合板を朝鮮・満州・中国大陸・インドまで拡販し営業手腕は抜群であった。「東京豊」吉川安遠との提携による開業も、最初から商社三菱の燃料部と直に取引する「卸販売業」(代理店)の創業であった。他の油屋の多くが丁稚奉公から勤めあげ、やがて暖簾分けで自分の店を持つスタイルとは明かに異なっていた。その当時の「油屋」は着物姿で得意先を回って注文取りをしていたが、豊商会だけは背広姿で顧客を訪問していたのである。後藤張幹と社員も、ともに新田時代に身に付けた近代的経営法を旧態依然たる「油屋」の世界に持ち込んだため、業界の一部からは「異端視」される場面もあったといわれる。

かつて片瀬給油所があった場所(左手角)かつて片瀬給油所があった場所(左手角)

森は大本山竜口寺山内森は大本山竜口寺山内

やがて昭和3年には片瀬給油所も経営するようになっていった。片瀬給油所は大船一片瀬問に自動車専用道が建設された際に竜口寺横に立地する当社3番目のSSである。同年8月開通した専用道「日本自動車道」は、ロンドン留学から帰国した菅原通済が「江の島へ至る世界最初の賃取り自動車専用道路を思い立った」ことから計画され、湘南電軌(京急)の株主らが発起人となって敷設されたもので、自動車通行だけを目的にしたため、出入口両端に給油所が設置され、江の島側出入口の京急所有地に三菱燃料部が建物設備を建設、当社が運営を受託した。同給油所は戦後、三菱石油と交渉して当社が買収して直営化したが、消防法との関係から昭和44年1月をもって閉鎖した。なお現在「湘南モノレール」が運行され、観光客と沿線市民の交通に供されている。


当社はこうして横浜に2か所、藤沢に1か所のガソリンスタンドを運営することにより、瞬く間に業界での有力な地位を築いていき、県内における三菱石油の代理店として最右翼の存在になっていったのである。
片瀬給油所が営業を開始した昭和3年の、わが国における自動車保有台数は6万台強で、現在からは想像できないほどのものであったが、当時とすれば急速な発展途上のさ中にあった。
前稿の「片瀬給油所」に関連して、「戦後になって当社は三菱石油と交渉して同給油所の払い下げを受けた」という記述をしたが、それを裏付ける後藤張幹社長自筆の「覚え」が現存する。次に掲載しておく。
この手紙によると後藤張幹は「高島町と吉野町給油所は既に三菱石油から譲渡を受けているが、片瀬給油所のみはまだ手続きが終っていない。 よって当初の約定の通り御高配賜りたくよろしく申し上げます」と督促しているものと推測できる。後藤張幹からの宛先となっている「西本龍三」氏は当時営業部部長、後に常務取締役に就任し、昭和46年に勇退した人物である。当社豊商会は開業以来の営業施設を三菱商事燃料部と、その後にこれを継承した三菱石油の資金で建設してもらい、給油所を受託経営していたわけだが、戦前の創業時に遡った石油販売業界の仕組みと経緯が伺えられる文書となっている。

片瀬給油所 設備その他概要
敷地面積 17.69坪(約58.4平方メートル)
事務所 5.00坪(約16.5平方メートル)
プロパン置場 3.80坪(約12.5平方メートル)
地下タンク
  • 容量1000ガロン 1基
  • 計量機 S型 1基(時計式)
  • 用地は京浜急行所有

戦時体制から終戦まで

揮発油購入券。赤券と青券の2種類あり、交付は地方長官が発行するとなっていたが、所轄の警察が扱っていた 揮発油購入券。
赤券と青券の2種類あり、交付は
地方長官が発行するとなっていたが、
所轄の警察が扱っていた

満州事変以後のわが国は、石油が世界の戦略物資に変化する中で、その需給関係をコントロールするため法規制に踏み切っていった。末端の流通と価格に対し統制強化が進められ、県内全業者の集中統合が図られていったのである。当時、県下には約320の小売業者があって、うち直営給油所などを持って小売も兼営する「特約店・代理店」(卸問屋)が20あった。これらを統合して昭和12年、神奈川県卸売商業組合と神奈川県小売商組合の2つの組織が結成され、後藤張幹も県卸売商組(磯部孝次郎理事長)の重要メンバーとして参画した。やがて昭和12年末には行政指導の形で「石油消費の規制強化」が通達され、戦時体制への流れが決定的となっていった。この結果、翌3月になって石油の「配給切符制」がとられていったのである。

「切符制」とは、実際には昭和14年末の木炭から始まった。生活必需品については15年6月にマッチと砂糖が指定され、翌年2月、衣料などが点数制へ移行している。具体的には衣料点数は1人1年都市生活者で100点、郡部生活者80点が付与され、この点数の内でYシャツ12点、手拭3点など公示点数が決められ、現金だけでは流通しない仕組みだった。揮発油ガソリン・灯油の場合にも写真のような「券」が発行されたのである。

石油専売法制定後、石油配給統制会社に対し売渡価格及び公定価格が行政指導された。その内容は表のとおりである。

昭和18年7月1日現在
品 名 キロリットル当り、正味価格
自動車用揮発油 272円80銭
白灯油(3号) 210円50銭
甲1号重油 113円50銭
1号重油 60円28鋳
1号マシン油 297円50銭

昭和15年4月~19年6月の公定価格
昭和15年4月 昭和17年1月 昭和19年6月
自動車用揮発油 219円 307円 306円
白灯油 168円 198円 204円
甲1号重油 145円 152円 157円
1号重油 79円 88円 128円
1号マシン油 184円 217円 239円

国家管理となった石油は販売から配給となり、県内でも昭和15年早々から戦時体制下への態勢を整え、従来の県卸商組を解消して神奈川県石油販売株式会社(県石販)を設立した。資本金は100万円。設立にあたり会社を構成する株主を、従来の「特約店・代理店」の中でも輸入・精製会社より直接仕入の実績がある「卸売業者」と限定し、これに株式を割り当てた。後藤張幹が初め営業部長に、後に常務取締役に就任した。新社に対する持株割合は、当時の県下の石油販売業者の力関係を如実に示しており、当社は合計14,900株のうち490株を保有し、全株主151名の中で第7位の株主となった。この結果、神奈川県を5つの区域に分割して各地区ごとの小売商組織(石油共同配給組合)に配給し、県石販を経由して供給することになった。

その後、戦局が緊迫してきた昭和17年1月、傘下の小売商を含めた会社に改組する商工省の意向を踏まえ、同社を「神奈川県石油配給株式会社」(県石配)と再び改め、ここに後藤張幹が社長として県下業界の最高責任者に推輓されたのである。このとき既にわが国は石油輸入の途を失っており、昭和18年7月をもって石油は「専売」となった。やがて民需用石油割当がゼロになり、石油で動く民間の自動車も半強制的に軍に対し供出させられる有様で、町には木炭車が煙を吐いて力なく走る光景が見られるようになっていった。昭和16年10月、政府によって輸送制限令が出されると、横浜港の荷役運輸に「馬力」が復活、続いて乗用車のガソリン使用が全面禁止となった。

このような状況にあった「県石配」は経営も成り立たなくなり、政府直轄の石油配給統制会社(石統)に吸収されて1出張所となり、県下の石油販売業者たちに事業経営の終焉が訪れた。この結果、数年前までは約320あった神奈川県下の給油所(配給所)も僅か26か所に集約され、当社は高島町給油所を配給所と改め、西区、保土ヶ谷区内の会社商店は当社以外では石油の配給を受けられなくなった。
また片瀬給油所でも藤沢市、鎌倉市の指定配給業務を行うことになり、当社は企業活動ではない単なる取扱所となっていったのである。そういう状況の中でも当社高島町給油所が扱う地区には横浜ドックや古河電線のような重要な軍需工場があり、当社の手で大量の石油を納入していた。
また古河電線が求める油剤は当社・三菱石油の製品にはなく、日本石油と交渉して納入したこともある。戦争末期になるとガソリンの配給はほとんどなく、自動車自体も木炭やコークスなどの代用燃料に変わっていった。豊商会も「代用燃料」に切り替え、開業当初の石油販売専門店という特色は費えたのである。


片瀬の住まいから出勤する後藤張幹社長が、時に、愛車に乗せて高島町に連れて来たことのある長男秀一も、昭和12年4月に県立湘南中学に進み、昭和17年春には日本大学商経学部に進学する青年となっていた。
しかし後藤秀一が神田三崎町都電通りに面して偉容を誇る学部に通学するのも僅か1年半で、翌18年10月には大学生の徴兵猶予が撤廃され、「学徒出陣」の一員として応召することになった。日大は11月7日、「出陣壮行会」を開き、全学生の武運長久を祈願している。翌19年3月、秀一は本籍地広島県御調郡原田村の本家で軍装を整え、第11連隊に入営、下関市彦島の幹候生集合教育隊に入隊した。やがて豊商会が創業した横浜は、昭和20年5月29日に米軍による猛烈な空襲攻撃を受けて壊滅する。横浜大空襲は同日午前10時半に始まったが、これを後藤張幹は片瀬の自宅のラジオで臨時ニュースを聞き、危険も顧みず急遽、出社したという。

昭和20年5月29日横浜大空襲昭和20年5月29日横浜大空襲

戦時中に社員だった浜田暉男の記憶によると、初め、社長はニュースでB29が横浜とは違う方向へ侵入しているということだったので、東京へ出張したという。同社員が高島町に着き賄婦にお茶をもらい、一服したところでB29の大編隊に見舞われた。当社から高島埠頭寄りに運輸省第二港湾事務所があって規模の大きな防空壕が掘られており、当社の社員全員そこに避難したようだ。事務所・油脂庫(揮発油類)などの施設を直撃、貯蔵物の爆発を誘発し、手のつけられる状況ではなかった。
空襲のさ中で出社していた社員は前述の浜田のほかに小川、平井それに賄婦の花村の4人だった。浜田は空襲が一段落すると他の社員を帰宅させ自らは留守を預かる責任上、社長の帰りを待った。夜になって顔に怪我をした社長が無事戻ったのである。会社はブロック造りの倉庫を残して全焼であった。翌日から倉庫を事務所にして業務を再開したが、取り扱うものは一切ないに等しかった。

高島町に勤務する社員は西消防署に集合して「終戦の詔勅」を聞いた。

終戦そして復興へ

戦後のわが国経済は混乱の極みに達し、石油業界は壊滅的状況にあった。
戦時中からの統制はなお継続し、やがて石油配給公団の発足に至るが、統制経済自体は逆に国民の窮状をさらに規制するものであった。わが国に石油自体が存在しないからであった。県下の石油関係者も敗戦による虚脱感と破壊による業務不能のために茫然とした日々を過ごさざるを得なかった。当社もまた焼け跡の整埋以外に仕事はなく、事実上の開店休業の状態だった。当社は、もともと石油販売の専門店として出発したため、同業者が戦後いち早く立ち上がった食用油の扱いも少なく、再建は配給切符による自主営業ができるまで待たねばならなかった。

終戦直後のヤミ市では、需給バランスが根本から崩れており、売手の側は品物さえあれば政府が規制した基準価格とは無関係に取引されていた。昭和20年10月、東京警視庁経済課が調べた食用菜種油1斗(18リットル)のヤミ値は2,000円の値を付けており、基準価格の約75倍という凄まじさだった。これを一部の油屋は市場に流して暴利を貧っていた。

こうした情勢を横目にして後藤張幹は、急伸する戦前の石油業界に生きることを第2の事業人生として選択しただけに、敗戦による停滞した状況と混乱の中で苦悩していた。後藤張幹はかつて丁稚奉公と天秤棒とで「油屋」を開業したわけではなかった。近代経営法をもった新田ベルトの経営システムの中から事業家となったのであり、阿漕なヤミ商人の真似だけは出来なかった。

しかし、関係する統制会社には元売会社からの出向職員もいて、彼等との交流を通して将来への布石を打っていった。後に日本石油副社長となる新井浩氏などもそのひとりだった。その心中には、必ず石油はわが国の基幹エネルギーとして復活するに違いないと確信するものがあった。

豊商会の発足

終戦直後、9月に後藤張幹の長男秀一が復員し、日大に復学した。張幹が社長を勤めてきた県石販会社は石油配給公団の発足で閉鎖が決まり、いよいよ自由経済下での石油販売が出来る時代が訪れようとしていた。
昭和24年1月20日、GHQは政府内の経済部局と石配公団、それに外油及び国内精製会社を集めて「配給制廃止」「政府払い下げによる元売・販売店制度の確立」など6項目の計画を提示し、制限付きながら石油の自由販売化への方向を打ち出した。公団は直ちに総裁名をもって全国の指定業者(配給所経営者)に対し通知、3月未で公団解散を発表した。
元売業者もまた会合をもって、政府の指名を受けるための協議に入っていった。当社豊商会も対応は早く、昭和24年2月には、後藤張幹と株主6名をもって法人を設立、販売自由化に備えたのである。社名を「株式会社豊商会」とし、資本金は200万円だった。


販売自由化の噂は前年秋ごろから流れ始めており、業者は元売を決める必要があった。当社も早急な対応を迫られていた。当社は25年前の創業以来、三菱石油との関係は深く、その代埋店の中でも「三菱三羽烏のひとつ」と呼ばれて有力な位置を築いていたが、頼みとする三菱自体は財閥解体によって細分化され、機能を失っていた。社長もこのあたりに関する苦悩は大きく、戦前の三菱時代に潤滑油を担当していた藤岡信吾氏が同じ藤沢市片瀬に住いを構えており旧知だったことから、しばしば居宅を訪ねて対処方を相談している。 しかし後に三菱石油社長となる同氏も、当時は解体直後の函館重油タンク社長に異動しており、強力な支援を求められない状況にあった。戦後、再編された「石油協会」は日本石油、三菱石油、丸善など国内5社の団体で、日本橋小舟町に本部が置かれていた。同協会の運営は前出藤岡信吾氏ら戦前時代からの元売、精製会社の中堅が出向してきており、主な業務は「石油の貿易(輸入)」であった。
次第に、米軍払い下げ石油を貿易庁と連携して処理する拠点となっていったが、後藤張幹もかつて同協会に続いて結成された「神奈川県石油協会」の発起人であり、その後は「県石配」の中枢役員として同協会との関係は強いものがあった。後藤張幹は協会へ通い詰めては情報を集め、県下石油販売業界の将来と豊商会の再興とを模索した。


24年4月を前に元売業者別の石油割当が決定しようとしていた。それはGHQの意向が大きく左右しており、スタンダード、ライジングサン(後の「シェル」)、カルテックス外油3社がそれぞれ24パーセントずつを占め、残る28パーセントを国内10数社で分けるという比率であった。
解体された三菱系は4.29パーセントの割当だった。一方、戦前時代に最大手を誇っていた日本石油は3.18パーセントで実質上の数字は三菱よりも低いものがあった。 しかし日本石油は同年2月、佐々木弥一社長が米国ダラスに本社を置く「カルテックス石油」との業務提携について、その可能性について言及し、両社が提携した場合にはわが国内石油の約28パーセント弱をカルテックスブランドが握ることとなる。
それは、とりも直さずシェアの問題というより商品供給の面における安定性と量の問題であり、販売店の生殺与奪に関する重要な素因であった。当社にとっても、いつまでも三菱という銘柄に拘ってはいられない状況となっていった。


三菱は解体分散化された結果、同社石油部門の細分化と乱立は、日本石油と比べて再建への立上がりが大きく遅れる要因となっており、小売業者へのガソリン供給に確実性が認められない。当社の営業再開には到底、間に合いそうもなかったのである。 実際に、戦後の三菱ガソリンのスタンドは昭和28年2月になって初めて開設されたのである。
残された唯一の頼りは「県石配」統制時代に指導者として机を並べた新井浩氏だけであった。昭和14年設立された石販会社は、戦局と並行して19年には政府の指示により解散し、新たに1県1社の統制会社にその役目が肩代わりする。 この東京支店長が新井浩氏で、同組織下部に後藤張幹が関係する横浜出張所があった。新井浩氏は小倉石油、石油共販、石油配給統制会社、配給公団を歴任して、昭和24年6月、日本石油本社へ取締役で戻り、後に副社長に就任した人物である。後藤張幹は旧知の新井氏に日本石油との「特約店」契約締結について相談していた。

このときの経緯を、昭和10年から同23年まで三菱石油の社員として当社との納品業務に携わってきた鈴木次郎氏(後に日新梱包常務)は「三菱は戦後の再建で、他の石油会社より立ち遅れた。戦後入社した日新商事にしても、豊商会にしても三菱に追従することは出来ず、日本石油に依存した」と語っており、また、石油業界紙を主宰した経済同友社高橋正浩氏も「終戦後、豊商会が日石特約店になったのは、新井浩氏が仲介の労を取ったのです」と回顧している。

日本石油株式会社(現在:新日本石油㈱)と特約店契約

当社が日本石油と「特約販売契約」を締結したのは昭和24年2月26日であった。公団から日石本社に戻った新井浩販売担当常務の仲介によるものであった。当社は直後、資本金200万円をもって株式会社に改組し、社長に後藤張幹が就任した。大東亜戦争突入以後の当社と後藤張幹は、自主的な経営活動も適わず、神奈川県揮発油重油部卸商業組合理事を初め、県石油配給組合(その後は同会社社長)として国策に沿った一種の公務ともいえる部門での立場に置かれ、戦後復活の第1歩の経営基盤をどういう形で形成したか定かではない。個人商店として家内身内の資金を集めた結果だったのかもしれない。 一方、昭和18年3月に帝国秘密探偵社が発行した『大衆人事録』(14版)には後藤張幹の名が掲載され「油商、綜合課税214円」と身代が記述されており、これから逆算して資産内容を推測できるが、その調査は後代の社史編集者に託する。


こうもりマークのカルテックスのプレートこうもりマークの
カルテックスのプレート

豊商会の商標豊商会の商標

日本石油販売の看板日本石油販売の看板

戦後における「日本石油」の特約店網形成の歴史は特殊製品販売の分野から始まった。21年5月に屋根葺き用防水紙(ルーフィング)メーカーとの間でアスファルト関連製品として締結されたものが最初だった。23年秋になると石油製品販売の統制解除が確定的となり、これらの業者と、戦前から石油販売で取引のあった旧日本石油系を中心に「特約店」を復活させる施策を決め、同年末までに全国「74店」を選定している。

日本石油は翌24年2月、特約店網形成「第2弾」として「81店」を加え、当社が「選考基準を満たしている」としてその1社に仲間入りしたのである。特約店は155店となったが、日本石油ではさらに翌月、29店を追加し、合計184店をもって同年4月以降の統制撤廃に備えた。なお全国184店中、関東地方への割振りは53であった。

日本石油の特約店選考基準は、▽従来から日本石油系・小倉石油系として取引があった ▽戦前は他社系だったが石油公団の推薦がある ▽原油輸入で提携したカルテックス・オイル・ジャパンの推薦する業者 ▽戦時中に配給所を運営していた地域有力店 ▽中小店統合後の大型店舗業者一一などが対象となった。
当社の場合は戦前は三菱系であったが、統制時代に「高島町配給所」ほかを運営していたことはもちろん、後藤張幹が県石配の社長として県下業界の指導者だったことが認められたのである。 特約店に対する日本石油の基本方針は「1店1社主義」を強調し、「日本石油以外との契約関係にある業者」を排除し、クロス契約するのを嫌った。そして各特約店の販売区域には厳重な線引きを行い、重複による特約店間の無益な競争を避けたのであった。

日本石油は戦後の販売自由化にあたり「特約販売契約」を規定して全国に販売店網を形成していったが、当時の業界をはじめ国情も流動的であったため、3か月毎の暫定契約とし、現在に準ずるような正式な形式は3年を経てからであった。

法人化後の進展

当社豊商会もいよいよ戦後の第1歩を踏み出すことになった。空襲で瓦礫と化した高島町の給油所も急速な整備が進んでいた。南区吉野町の駿河橋給油所と片瀬などが無事残ったことで、かつての顧客が再び戻ってくる幸せがあった。
当時の石油販売業者は「元売」と特約販売契約するだけでは営業できず、開業に先だって東京通産局神奈川出張所に「石油製品販売業者登録」を申請し、登録認可を受けなければならないことはいうまでもない。それは特約店を経由する小売店についても同様であり、現在の揮発油販売業法に引き継がれてきたものである。

高島町本社で元旦の記念撮影(昭和30年)高島町本社で元旦の記念撮影(昭和30年)

当局から登録を受けた当社は、4直営給油所と複数の販売店を結集して再出発したのである。社長以下、社員も増えていた。当社が再出発した昭和24年のある社員の給与明細を見ると、年俸60,760円(手取り=54,861円)であった。平均月収で5,100円弱である。これに勤務状況により中元、歳暮、賞与の各手当が支給されていた。食糧事情も回復の途上にあり、「料飲店再開法」が公布施行されてビヤホールが復活、ジョッキ1杯(500ミリリットル)160円前後で売られ、食糧に関してはヤミ依存から脱していた。市内小学校教員の初任給も3,991円と公表され、当社社員の給与も一般社会を少し上回る額であった。

しかし産業界は引き続き激しいインフレーションの波に洗われ、本格的なデフレ政策が望まれていた。この年の2月、米国デトロイト銀行頭取であったドッジが来日、GHQの下で経済安定のための荒療治に掛かろうとしていた。
その結果、4月からは1ドル360円単一レートが決まり、シルク・繊維などの輸出貿易を別として石油を含めた輸入価格が大暴騰し、失業者が増大していった。町にはその日暮しの日雇い労働者があふれ、1日254円(ニコヨン)の仕事に就くだけでも大変な時代であった。

一方、総合的な国土再建は進み、第2京浜国道に全長435.76mの多摩川大橋が開通し、物資輸送手段が自動車交通に移っていこうとしていた。輸入価格の高騰と品薄を素因に揮発油小売価格の値上がりは激しく、終戦直後の21年4月に1キロリットル1,420円だったものが、22年4月に3,332円、同7月には一挙に7,900円と高騰していき、24年4月になると17,200円という数字で天井知らずの状況となった。
この状態は統制撤廃以降も続き、28年になって初めて揮発油の小売価格が前年割れとなった。このころの小売店の荒利益は15パーセントを上回るもので、最大16.6パーセントを示す年度もあって、現在では到底想像できないほど旨味のある商売だった。
この昭和24年12月末現在の「東日本実働車集計表」という統計が商工省から出され、わが国における自動車登録の車種別概算が公表された。
進駐軍関係車両、占領軍以外の第三国人所有のもの、国内人の使用車両とに分類された。横浜を中心とする神奈川県内では、車両が2万台に満たない僅かなものであった。同統計に計上された東日本全体の車両は、全部の車種を合算しても28万台に及ばなかった。

初めてのユニフォーム初めてのユニフォーム

当時のタンクローリー当時のタンクローリー

昭和29年藤沢商工会議所と市主催の「藤祭」で豊商会が優勝したフロート昭和29年 藤沢商工会議所
と市主催の「藤祭」で
豊商会が優勝したフロート

自動車登録の車種別概算
(昭和24年12月現在)
神奈川県 東京都
乗用車 5,422台 16,372台
バス 636台 2,131台
貨物車 9,279台 25,750台

当社は会社設立の年度を無事終えようとしていた。昭和24年の暮を控えて、後藤張幹社長は新生豊商会の1年の愛顧の気持ちを込め戦後初の「御歳暮」を用意した。それは「豊商会」の金文字入り特注の「手帳」である。12月14日から感謝の気持ちと共に顧客へ配った。後藤張幹が自ら記した「手帳贈答先明細」には当時の当社の取引先の名が一目瞭然となって次のように並んでいる。

主な手帳配布先
日本通運 9支社 鈴江組 宇徳運輸 奥村商会 ゆたか建設
松村商会 自家用戸部 労働安定所 鶴岡運輸 日新商事
神奈川企業 カルテックス 中原産業 営業社員関係部署  

新体制への始動

石油業界に元売制度が復活し、当社も自主的な企業経営ができることとなったが、切符制による統制は継続していた。その目的は消費規制と公定価格の維持にあった。
しかし専売制は廃止され、代わりに従価に対して100パーセントの石油税が課され小売値と同じ税額を需要家が負担することとなった。日米講和条約の締結が発効するまでは、まだ石油の行政権はわが国にはなかった。切符制による価格統制が解除されるのは昭和27年7月であった。この間、同25年6月に朝鮮動乱が勃発し、未曾有の特需ブームが押し寄せ、日本経済はわずか2年半で簡単に戦前水準を回復し、高度成長への途を拓いていった。

藤沢土木事務所宛の、秀一が事務用箋に書いた見積書藤沢土木事務所宛の、秀一が事務用箋に書いた見積書

統制撤廃を目前に控える昭和27年6月、社長は全国石油協会総会に神奈川県支会常任埋事の資格で出席し、「統制撤廃後における市場安定策と業界の結束を強く求める」と発言、まとまりのない業界体質と自由化後の過当競争を予測して憂慮した。
こういう経過を経て、県下に70石油販売業者の賛同を得て「神奈川県石油業協組」が設立され、設立発起人である後藤張幹も10名の理事の1人として選任された。この協組設立による業界の一本化は東京に先んじた。このときに協定された自動車用揮発油の価格は1リットル35円(65、72オクタン価共通)、白灯油1リットル24円、軽油1リットル19円というものであり、約3年前の24年暮の統計で全国に28万台に及ばなかった自動車台数が、この年9月には65万台と増えていた。昭和25年6月10日付けで当社が建設省藤沢土木出張所へ提出した製品納入見積書をみると、当時の大口需要家に対する価格が、表のようになっていて状況が把握できる。

鉱工業生産指数が戦前最盛期(昭和9-10年)の基準の128まで復活、産業全体における設備投資が旺盛となっていった。中小企業でも小型トラックの購入と使用が伸び、26年12月、石油経済新間社が調べた自動車用揮発油「神奈川県販売量ベストテン」で当社は1,020キロリットル(卸含む)を計上、同業者に互して「6位」に位置され、社員の会社に対する意識が大いに発揚したものである。

なお当社は、昭和24年8月1日に藤沢西給油所を開設し、同27年4月1日に従来の吉野町給油所を改築して再開店し活発な事業展開に励んでいた。昭和26年3月に入社し、以来、専ら潤滑油畑を歩いて来た神山隆二は、「入社当時はまだ統制下で、1号線のスタンドも当社の高島町給油所から藤沢遊行寺下の神奈川石油までの間に、戸塚平戸と戸塚警察署隣の内田さんとの、合わせて4軒しかありませんでした」と回顧する。


戦後の立上がりから公団を中心に石油販売業界のため、また豊商会の再建に力を尽くして来た後藤張幹社長だったが、年齢的にも還暦を過ぎると過労は響き、数年前から心身に変調がみえていた。28年4月6日も自宅で気分が悪くなり、日頃、家族の主治医として付き合いがあった日浦幸助医師の往診を受けた。しかし、初めは単なる疲労と軽く見ていたものが、日を追うに従って変調は深くなっていった。しかし本人の、少し仕事を休めば治るのではないかという意識もあって、当分の間、自宅療養で回復するのを待ったのである。結局、そのまま病状は進み、医師も脳硬塞と断定せざるを得なかった。


市電停留所越しに見た高島町SS市電停留所越しに見た高島町SS

当社にとって創業者である後藤張幹が卒中(脳硬塞)で倒れた影響は大きく、とくに取引をしていた銀行の動きには厳しいものがあった。社長は戦前はもちろん、終戦直後の混乱当時から事業を立ち上げてきただけに、能力と手腕は当社経営の唯一頼みとするものであり、その大黒柱が病気に倒れたことから銀行側は大きな危機感を持ったのである。
終戦から5年、朝鮮特需ブームが始まり未曾有の盛況を迎えようとする中で、前年6月に石油製品の統制が撤廃され公定価格も廃止となり、事業を軌道に乗せ、これから拡大発展をしようという時であった。後藤張幹は、県下に石油業協同組合が設立されて理事で参加し、業界で有力な地位を固めようとしていた。まだ日本石油東京営業所管轄の特約店は82店と少なく、うち都内の業者31を除けば関東地方ではわずか51店のうちの1社という位置にあった。

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