豊商会の歴史

豊商会の歴史SINCE1924 … そして未来へ

第1章 草創期/創業の頃

株式会社豊商会の前身は大正13年8月1日に開業した豊商会横浜出張所である。後藤張幹は個人商店で出発した。当時この業界は「油屋」と呼ばれていたが、豊商会は油屋としては特殊のガソリン販売を主とする専門店であった。
県下における石油販売は胡麻油、菜種油、椿油などを扱う植物油業者が兼業しており、当社豊商会のような石油販売専門店は例外であった。

豊商会横浜出張所開業

創業者後藤張幹・トキ夫妻創業者後藤張幹・トキ夫妻

株式会社豊商会の前身は大正13年(1924)8月に創業した有限会社豊商会横浜出張所である。後藤張幹(はるき)が、尾道商業学校時代の英語教師吉川安遠の勧めにしたがって三菱商事燃料部代理店として中区桜木町7丁目で開業した。この年、後藤張幹は弱冠33歳であった。

前年の関東大震災からほぼ1年、市内はまだ復興の途上にあったが、その事業の中心は道路網整備となって高島町を軸とする神奈川 ― 保土ヶ谷線の拡幅舗装工事が急がれていた。横浜市は廃墟の中から、新たな都市づくりを道路交通に主眼を置いて進め、あたかも自動車時代の到来を予期させるかのようであった。東京の吉川安遠の「有限会社豊商会」は、大正13年4月、三菱商事が石炭・石油両部門を合併して燃料部と改称した際に第1号の特約店となったもので、三菱商事燃料部と同じ東京丸の内「三菱廿一號館」に本社を置く会社だった。しかし、吉川のパートナーとなった後藤張幹の横浜での開業はこの横浜出張所という名目ではあるが、資本上、独立した経営組織で出発した。

当時の石油業界の状況

桜木町―高島町の道路舗装工事(昭和元年~)桜木町―高島町の道路舗装工事(昭和元年~)

大正13年の開業当時、当社が「代理店」となった三菱商事燃料部の石油販売量は、ライジングサン、日本石油、スタンダード石油会社に次ぐ規模であった。米油と提携して三菱が販売していた「赤コップ印」ガソリンは、昭和3年に商工省が調査報告した資料によると国内総数の約4.49%であった。対するライジングサン「赤貝印・黒貝印」は29.5%、日本石油「煽短(コーモリ)印」は27.2%とトップ2社が大きなシェアを占めていた。4杜の他には小倉石油、三井物産、シーボード(メキシコ系、輸入元・岩井商店)などの銘柄もあったが上位3社だけで国内需要の約77%を抑えていたのである。大正の終り頃から新しいエネルギー源として「石油」が抬頭しはじめるが、産業用燃料としてはまだまだ石炭に依存する時代であった。第1次世界大戦が終った後、世界は石油の重要性を認識し、わが国においても政府が大正12年に石油調査会を設けて国内での石油精製を行うことを検討した。この状況を受けて、三菱商事は同系の鉱業会社を通じて石油資源の調査・開発と利権獲得に努力し、正式に石油取引を始めることを決め、サンフランシスコのアソシエイテッド石油会社との提携交渉を進めた。役員を同社に派遣し、国内における製品販売を三菱に一任されるよう交渉を重ねた結果、同12年12月、同社との間で石油輸入の契約が締結された。三菱商事の取扱いとして揮発油・灯油(コップ印・時計印)を販売することになったのである。しかし、揮発油・灯油などの販売には一般販売店を通じて需要家に供給する組織が必要であり、三菱も当時の有力業者であるスタンダード石油・ライジングサン石油・日本石油らと同様の特約店・代理店網の構築を図っていった。

三菱商事は大正13年4月に揮発油などの国内販売を開始した。その基礎となった特約店網は、わが国から撤収した「テキサス日本支社」(横浜山下町53番地。大正11年12月頃、三菱二十一号館に移転)の旧特約店の中から選択してつくった、と『三菱石油50年史(三石50年史)』は書いている。昭和56年に刊行された「三石50年史」は、第1章を同社の「創業前史」にあて、「特約店の設置」の項目で揮発油、灯油、潤滑油に関して詳しく記述しており、これが当社に関係深い部分なので次に引用しておく。

販売には供給する組織が必要であった。当時、わが国内における有力業者であったスタンダード石油、ライジングサン石油(のちのシェル石油)および日本石油は全国に特約店網をしいていたので、商事も同様の方針の下に、特約店の設置に努力した。ちょうど、偶然にも以前からわが国に進出していたテキサス石油が、なにかの都合で本国に引き揚げたので、その供給源を失った販売店の中から優秀なものを選択して採用し、特約店網をつくることができた。特約店の最初は吉川安遠(のちの豊商会)と神田松彦(神田商会、のちに東京菱油商会と改称)の2店であったが、続いて東京では、塚本、恵谷、後藤、相馬、中田等特約店網は広まっていった。しかしながら、スタンダード石油やライジングサン石油の勢力が強く、販売は容易ではなかった。

当社創業当時に扱ったガソリンの商標当社創業当時に扱ったガソリンの商標

「三石50年史」本文が始まって4ページ目という重要な場面に記載される「吉川安遠」は当社を創業した後藤張幹の恩師であり、横浜豊商会開業の勧誘をした人物であることはすでに記述したとおりである。

特約店第1号となった吉川安遠と神田松彦は、三菱に初めて入荷した「コップ印」のガソリン500箱(1箱18リットル入り缶2缶入り)をそれぞれ250箱づつ受領し、一般に販売したのである。昭和4年ころの三菱特約店は13軒であった。神奈川県下では豊商会横浜出張所と山中商店(中村氏)の2軒だったが、豊商会はこれに山梨県が販売区域として与えられていた。当時の三菱燃料部との取引においても「代理店」(現在の特約店)資格を得ることは非常に難しく、証拠金を積むことは当然である。出荷量も差し入れた証拠金の範囲内だった。しかし歩合戻しは20~30%あり割合有利な利潤が得られた模様だ。

大正末期から昭和初期

ガソリンガールによる給油風景ガソリンガールによる給油風景

既述したように、当社が創業した当時の県下の石油販売業者は2、3の例を除いて、すべて植物油業者が「石油」を兼業しており、彼らは問屋の下で任意団体を組織していた。この販売業者が扱っていた植物系とは胡麻油、菜種油その他などで、これを「灯油・車両油」の商品として販売していた。昭和初年ころまでの「ガソリン販売」は石油缶2缶を木箱詰めにしたものを1単位の取引としていた。同時に、このころからぼつぼつポータブル計量機が登場し、油屋の手で直接、自動車の燃料タンクに注入するようになった。そして計量機のあるスタンドでは例外なく「ガソリンガール」によって機械操作され、美人ガールたちは街の花形ともいうべき存在となった。ガソリンガールの中には、選ばれて「ミス松屋デパート」になった女性もあって、婦人の職業としては進歩的なものであった。石油業界は外油糸商社の強力な資本をバックにした攻勢を素因として、国産製油会社との間で、常に猛烈な価格競争が続いており、これを受けて各販売店間のサービス競争も熾烈を極めていた。女性従業員(ガソリンガール)は特段定めたユニホームというものもなく、和服にエプロン掛けといういでたちで店頭に立ち、給油だけではなく給油客にお茶や煎餅を出したり、10ガロン(約38リットル)ごとに煙草「ゴールデンバット」1個を進呈するサービスなども行って売上を伸ばした。給油客の中にはガソリンガールがいないと給油せずに帰ってしまったり、値段の高い安いもさしT型フォードて問題とならなかったので、女性従業員だけで運営させる経営者も出て、同業者間の競争はさらに激しくなっていった。当社でも「駿河橋給油所」は男性主任1人を除いて4人の店員がガソリンガールという時代があった。駿河橋給油所は横浜でも都心にあるため顧客にタクシー業が多く、終夜営業をする態勢も同店から始まり、同給油所では正月3が日には「汁粉」を振る舞った記録も残っている。

1990年代のサンリッチ吉野町、交通標識に駿河橋の文字がある1990年代のサンリッチ吉野町
交通標識に駿河橋の文字がある

昭和8年、「日ソ石油」が輸入、販売されるようになると販売合戦はさらに激しくなり、対抗する元売6社が1ガロン(約3.8リットル)あたり特約店渡し価格40銭と協定したが守られず、ついには26銭まで暴落するという状況があった。昭和5年に助手から正式運転手となったある顧客は、「相生町にあったスタンドでは5ガロン1円55銭だった。これにガソリンガールから煙草1箱を手渡され、コーヒー付きのサービスだった」という。当時のタクシー営業は、T型フォードを1時間2円で賃借し、燃料運転手持ちで流していたようだ。根岸競馬の開催日には競馬場と桜木町駅、横浜駅間をピストン輸送し、相乗り1回6~7円の稼ぎとなったという。

当時の営業車は最大8人乗りの乗用車で合計37台、横浜ハイタク業界の草創期でありまだ少なかった。「青タク」と呼ばれた富士屋自動車(箱根富士屋ホテル経営)を除いては、1台持ち業者が中心だった。活動の拠点は横浜駅前で、裏高島町1丁目1番地に設立された横浜市街自動車(株)が有利であった。大正7年12月、T型フォード16台で発足した同社は後に数社との合併を経て神奈川都市交通に発展、高島町交差点近くの同社ビル1階には、当社も事務所を置いたこともあった。

高島町に進出

やがて陸上交通の発展と共にガソリン販売も興隆期を迎えると当社は紅葉ヶ丘下の給油所だけでは対応できなくなり、昭和6年、元料理屋を買収して表高島町に移転することを決めた。同地は現在の本社が立つ場所であり、元鍋島侯爵家が所有する土地であった。佐賀の鍋島家は、当社より3年早く高島通りに進出した崎陽軒も社史の中で「鍋島家所有の土地、約800坪の買収に成功した」と記述しているように横浜とは開港以来所縁があったようだ。

現在地と同じ表高島町2番地に本店を移した豊商会は、三菱商事燃料部の資金援助(後に三菱石油に引き継がれる)を得て、地下タンクを設置した近代的なガソリンスタンドを建設した。同時に、それまでは店と住まいが一緒だったものを分離し、自宅を平沼町に構えた。当初は2人で出発した事業も大きくなり、社員も6~7名と増え、経理係や当直要員などという専門の職員も擁するようになっていた。

大正4年製のガソリン給油機 大正4年製のガソリン給油機

このころになると、顧客も不安定なタクシー業など個人営業者から、横浜市役所、横浜税関、三菱海上火災、市警察加賀町署・伊勢佐木署などの官公庁や大手企業と取引が広がり、横浜税関へは大型ローリー(回槽自動車)で直接納入するほどの販売量があった。さらに吉野町に駿河橋給油所を建設して支店とし、次に大船 ― 片瀬間に自動車専用道路が建設された際、江の島側出入口角の竜口寺側に片瀬給油所を建設した。これによって当社は「三菱の代理店の中でも大手であったので、しばしば販売方法について懇談する場を持った」(当時三菱燃料部社員、後に京極運輸常務)という位置に立っていったのである。日本フォードが震災を機に中村町から神奈川区守屋町に工場を移してフル生産に励み、自動車を中心とする陸上交通はいよいよ盛んとなっていった。後藤張幹社長もいくらか心に余裕ができてきたのか、親しい同業者と共に「謡曲」や「書」を習い始めたのもこの頃であった。

昭和9年に入ると京浜重工業地帯のエネルギーを一手に賄う横浜港には内外各地から石油が到着し、横浜経済の興隆は益々上がっていった。満州国の石油専売法に刺激されて鶴見・神奈川・川崎港へ到着する石油輸入量は急激に増え、連日1万トン級の巨船が横付けされ、12月1か月だけで10万トンを超える記録があった。日産自動車がダットサンの量産を開始したのも同月であり、庶民の間にもオート三輪が出回る時世となったのである。当社創業時に社員が使用していたオート三輪は二葉商会製のインディアン号で、無免許で運転できる小型自動車であった。2サイクル350cc、4サイクル500ccの2種が規格とされ、最大積戟量60貫(約230キログラム)、速度16マイル(時速26キロ)というもので750円の価格だった。当社がこれを導入したのは開業間もない大正13年だったが、この頃の財閥系会社の初任給は帝大、東京商大出、早慶卒で75円、明治など東京の私大出と官立高商卒で65円の時代である。

石油協会の設立相次ぐ

わが国石油業界に初めて組織らしい組織作りが行われたのは、昭和5年、東京にあった各系列の代表格としての大手特約店7社の発起によって「石油協会」が結成されたのが嚆矢となる。当時、外油系としてライジングサン(欧州系)、スタンダード(米国系)、三菱(米国系輸入会社)、愛国、昭和などの製油会社があり、その勢力は外油国産ほぼ半々であったが、業界内には外油系商社の強力な資本をバックにした攻勢が素因となって、常に猛烈な販売競争が続いていた。

これを嫌った前出7杜は「過当競争を改むるに非ずんば‥」の趣旨をもって任意の東京石油協会を結成したのである。「神奈川石油協会」はこの数年後に県内大手特約店10数人によって結成、磯部孝次郎を会長に、当社後藤張幹が筆頭メンバーに加わっている。これによって県下に繰り広げられている激しい競争に終止符を打とうとした。一方、顧客は、大半が経営基盤の弱いタクシー業や運送業であり、しかも業者は1台持ちの個人経営で、売掛金のこげつきは決して珍しいことではなかった。ガソリンを扱うどこの小売店でも、大なり小なり代金不払いに苦しんでいたのである。

高島町1丁目付近に開業した2代目省線横浜駅(大正14年) 高島町1丁目付近に開業した2代目省線横浜駅(大正14年)


豊商会開業から昭和10年全国自動車保有台数の推移
台数(台) 前年比(%)
大正13年 20,587 127.7
14年 26,446 128.5
昭和元年 35,802 135.4
2年 46,293 129.3
3年 60,533 130.8
4年 71,555 118.2
5年 106,606 149.0
6年 118,241 110.9
7年 125,136 105.8
8年 134,612 127.7
9年 156,582 116.2
10年 176,252 112.6

トラック・バス・乗用車・小型四輪車・オート三輪・二輪車・特殊車の合計
(資料)近代日本輸送史

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